信仰によって義と認められた私たち
…信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。…この恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。…この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。…私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。…
ローマ人への手紙5章1節~11節
今日の礼拝は、一年のちょうど折り返し地点。ここまで私たちを導いてくださった神に感謝しましょう。
「ローマ人への手紙」は、パウロが書いた手紙の中でも例外的な手紙です。彼は、少なくともこの手紙を書いた時点では、まだローマを訪れていませんでした。まだ見ぬ人々、まだ見ぬ地に向けてこの手紙を書き送ったのです。しかも、ローマでイエスがキリストであると信じる人々が起こされたのは、これよりも前、ペンテコステの時です。弟子たちに聖霊が降り、イエスは主であると証しし始めた人の中に、ローマ人もいました(使徒の働き2:9-11)。早い段階でキリストを信じたローマの人々の中に、ユダヤ教の影響が強く残っていて、律法の行いを全うすることで、人は義と認められると考えていました。パウロは言います。「律法によって人は義とされるのではなく、福音によって、キリストを信じる信仰によって、義と認められるのです」。では、信仰によって義と認められた私たちは、いったいどのような恵みをいただけるのか、聖書の今日の箇所から味わいたいと思います。
1.神との平和と和解にあずかる
神と私たちの間の平和は失われ、私たちは神の敵でした。しかし、信仰によって義と認められた私たちは、神の友となり、父と子の関係にまでなりました(ローマ書8:14-16)。確かに敵は、今も私たちの周りに存在しますが、神が私たちの味方なら、誰が私たちに敵対できるでしょう(ローマ書8:31)。神との平和を築いた人は、神を味方に得たのですから、必ず勝利させていただくのです。
2.神を喜ぶ者とされる
世の中の喜びは、おいしいものを食べる、応援していているチームが勝利する、素敵な人と出会う、仕事が成功する、お金を儲ける、病気が治る、問題が解決するなどですが、ここでは神からの喜びがあると語ります。それも「大いに」と付けられる喜びです。神の恵みの中に立っている私たちは、どんな状況の中にあっても、神を喜ぶ者とされています。私たちの信仰生活の中で、たとえ嫌なことがあっても、そのことに目を奪われるのではなく、神を見上げましょう。神を喜びましょう。きっとあなたの力となります。
3.神の愛が豊かに注がれる
義とされる以前の私たちは、神の敵であり弱く不敬虔で罪人でした。そんな、愛していただく何の理由もない私たちのために、神が定められた時に、イエスが死んでくださることによって愛を示されました。私たちが信じて義とされる時、私たちはその愛に気付くのです。信じてください。そうすれば、神の愛がわかります。
4.すでに聖霊が与えられている
イエス・キリストを信じたら、特別な人だけでなく、すべての人に聖霊が与えられます。この聖霊が、神と私たちの間に平和をもたらし、愛されている保証となります。神は無限大であるから、小さい私たちは、神を完全にとらえることはできません。しかし、聖霊が私たちに注がれているから、神の愛に気づかせていただけるのです。2018年の後半の日々に向かって、前半にも増して心から神を崇めながら、喜んで主の恵みに期待して歩んでいきたいと思います。