小さい者たちの神の国
「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、…言われた。「…あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。…しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。…
マタイの福音書18章1節~14節
イエスの弟子たちの関心事は、自分たちの中で誰が一番偉いかということであり、そんな議論を度々していたようです。イエスは弟子たちに、子どものように自分を低くする者が、天の御国において一番偉いと答え、天の御国の地上での現れである教会における人との関わりのあり方、人の見方というものを弟子たちに教え始められます。
今日は小さい者たちのための神の国ということを中心に、神の恵みの言葉を味わいたいと思います。
1.小さい者に心をかけられるイエス
ここに小さい者たちという言葉が出てきます。その例として、小さい子どもたちを呼び寄せて、弟子たちの前に立たせたのです。小さい子どもたちは可愛らしく、愛しい存在であるからではなく、この時代には、労働力のない子どもは無価値な者と考えられていたのです。でも主は、その価値のない子どもたちをそのような目では見ておられないし、そういう目で見てはいけないと言うのです。私たちの主は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ43:4)と言われ、値打ちのない私たち、小さい一人一人を心にかけてくださっていることを覚えておきたいのです。
2.つまずきを与えることへの警告
まずイエスは、つまずきは避けられないと認めておられます。私たちはつまずきやすいのです。つまずくのは私たち自身の問題でもあります。しかし、それでもなお自分が人をつまずかせることがあってはならないということを、肝に銘じておかなければなりません。私たちがイエス・キリストを信じる者として本当に気をつけておかなければならないことは、誰に対してもつまずきを与えないように心がけることであります。つまずきは避けられず、つまずくのはその人自身の問題でもあります。でも極力本当につまずかせない配慮をもって歩む者でありたいのです。
3.人を自分よりも優れた者と思う
弟子たちが、「天の御国では誰が一番偉いか」と質問してきて、イエスは答えられました。「悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国に入ることはできない」。私たちはつい偉ぶって、自分を大きく見せようとします。虚栄心が私たちの心の中には存在しています。その小さな思いがあるならば、それを小さな芽のうちに摘み取っておきたいと思います。そして人をつまずかせない、へりくだる生き方を実践していきたいのです。「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」(ピリピ2:3)。本当にへりくだって、人々を自分よりも優れた者と思いましょう。神の栄光はそこから現れます。
4.私たちは主の恵みに支えられてある
小さい者とは、私たち自身のことでもあります。私たちは、天の御使いたちに支えられているから、父なる神の御顔を仰ぎ見ていられるのです。ヘブル1章14節には、仕える霊である天の御使いが、私たちのために遣わされているとあります。そして父の御心は、私たちが救われることなのであり、私たちの信仰は、自分の力や努力で成立しているのではなく、神の恵みに支えられてあるということをしっかりと心に刻みつけたいのです。