スミルナの教会へ
また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。『初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる。――…あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。…悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。…死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。…勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」』 ヨハネの黙示録2章8節~11節
今日の聖書箇所からスミルナの教会の御使いたちに書き送られた手紙の内容をご一緒に学んでまいりましょう。当時の人々は殆どの人が文字を読むことができませんでした。黙示録の教会宛の手紙は、教会の御使いたちに書き送られていますが、御使いとは、文字通り捉えることもできますし、あるいは教会の指導者のことであるとも考えられます。指導者たちがまず正しく手紙を読んで、信徒にその言葉を語ったのであります。
スミルナ(現在のイズミールはトルコ第三の都市で人口は400万)の教会には、ポリュカルポス(AD69~155)という指導者がいました。彼はヨハネの弟子であり、「死に至るまで忠実である」ことを実践した指導者だと言われています。スミルナの教会は、貧しさ、苦しみの中にあり、更に苦しみが襲ってくる状況にありました。この箇所から3つのポイントに集約して神の恵みをいただきましょう。
1.苦しみに勝利する教会、信仰生活
苦しみを通ることのない教会、信仰生活は、実はないと言っても過言でありません。そこには、ある種の闘いがあるのです。教会も信仰生活も様々な状況、状態に置かれます。もちろんよい時もあるでしょう。しかし、苦しみや貧しさを経験することもあり得るのです。スミルナの教会が苦しみと貧しさの中にあったのは決して人ごとではありません。
イエス様を信じたら全て薔薇色、私たちの歩みはそんなものではないのです。私たちは苦しさ、貧しさの中を通ることがあっても、それを恐れず、勝利する者となり、神からの素晴らしい恵みをしっかり頂く私たちでありたいと思います。
2.苦しみの中に富が隠されている
主は、彼らが苦しみと貧しさの中にあっても、実際は富んでいるのだと語っています。私たちはたとえ苦しみの中にあったとしても、宝のような恵みを頂いて生かされている、このことに気づく者でありたいと思います。
苦しみの中にも、素晴らしい神のご計画がある、神のお考えがある、神が宝を隠しておいてくださいます。だから、私たちはどんな辛い状況にあったとしても、その中にある神の恵み、憐れみ、ご計画、お考え、すなわち隠れている宝を見つけることができますようにと祈ろうではありませんか!
3.信仰を保ち、いのちの冠に与(あずか)ろう
死に至るまで忠実であれば、私たちは「第ニの死」を迎えることはありません。「第ニの死」とは、私たちが肉体だけの私たちではないという事を意味しています。私たちが死ぬのは肉体において死ぬのです。「第一の死」は、肉体の死であります。「第ニの死」は、私たちから神の霊が取り去られることであります。神と共にある私たちの魂が損なわれること、失われること、霊的な死であります。
でも私たちが本当に信仰を持ち続けて生きるならば、私たちは決して霊的な死を迎えることがないという約束が確かなこととして成し遂げられます。私たちは永遠に神の霊を頂いて、主と共に生きるという恵みに与ることができるのです! 聖書の時代に生きた指導者たちからもこのことが真実だと学ぶことができる、この恵みにも感謝しましょう。