信仰によって義と認められた私たち

私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。…「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。              テモテへの手紙第一1章13節~16節

先週は豪雨でしたが、大洲キリスト教会は無傷でした。兄弟姉妹の関連の家や断水の被害のある場所もありますが、皆守られていました。一方、全く気にしていなかった教会のみかん山の倉庫の一部が道路に崩れ落ちて、今後どのようにするか考えていますが、皆さんのお祈りに心から感謝しています。
こういう災害が起こると、人間は本当に小さな存在だと痛感し、当然と思っていることが、全て神に守られていると実感します。人生は、良いことばかりでなく、試練もありますが、「時が良くても悪くても」常にイエスを信じ信仰を告白して前進しましょう。私たちは、イエスに出会う前の罪や悪の力、世の中の法則だけで生きていた古い生き方から救われ変えられ、神からの目的や意義を持って証しの立つ生活を与えられていることを、もう一度受けとめ直したいと思います。
今日の聖書箇所はパウロが弟子のテモテに送った信仰の導きの手紙であります。パウロの指導の基本を、彼自身がクリスチャンとして受けた恵みを、喜びを持ってテモテに対して証ししています。3つのことを今日の聖書箇所から見いだしたいと思います。

1.弱く足りない情けない罪人の自分

パウロは、主キリストの教会を迫害し、自分は正しいと信じながら、いつのまにか悪魔にもて遊ばれ神に背き、ステパノの殉教に荷担する、とんでもない罪人として生きていたことを認めています。

2.救い主イエスにより変えられた自分

ダマスコへの旅の途中で、彼はイエスと出会います。これにより、「救い主が私の罪を身に背負い十字架にかかって死んでくださった! キリストは罪人を救うために本当にこの世に来てくださったのだ!あの十字架にかかられたイエスは救い主キリストなのだ!」とパウロ自身が信じて救われたのでした。私たちが毎週喜んで教会に通い、クリスチャンとして神を喜び、永遠の命、天国に向かって歩ませて頂けるのも、私たちの努力や心の清さ、決意の固さによるのではなく、全てイエスが、あなたの罪を背負い、十字架で死んでくださったからに他なりません。このことをはっきりと告白しましょう。

3.主の証し人とて歩む自分

キリストと出会い信仰告白をしたパウロは、神によって大きく変えられました。キリストを迫害した中心人物であった彼が、なんと全世界を伝道して歩く初代教会を代表する伝道者とされ、新約聖書の多くの部分が彼によって書かれるようになりました。どうしてこのようなことが彼の身に起きたのでしょうか? 今後、彼の後に続く人々が、どんな罪人であっても救い主イエスと出会うとこんなにも変えられ、そして、神を信じると神からの計画、ビジョンにより、これほどまで用いられるようになる、という模範となるようにパウロは作り変えられたというのです。
これを聖書の中のパウロだけの物語に終わらせてはなりません。私たちの人生は、キリストを証しし、誰かの模範や見本になれるように、どんなに弱さや足りなさがある者でも用いられることを感謝しましょう。パウロが語っている彼の体験は、あなた自身も体験できることなのです! この神からの大きな恵みをしっかりと受けとめて今週も前進してまいりましょう。