光として来られた主キリスト

わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。
                 ヨハネの福音書12章46節~47節

いよいよクリスマスの盛り上がりの時期を迎えますが、イエスの誕生を祝うクリスマスのお祭りが実に2000年にも亘り、世界中で祝われている、その価値の大きさを忘れないようにしたいと思います。それが今日まで続いているのは、イエス・キリストが今生きる私たちにもたらしてくれる恵みが聖書の約束通りであるからです。イエスが私たちに与えてくださる恵みが全く色褪せない、今も私たちの内にイエスの命、救い、恵みが与えられることを心から感謝しましょう! 神を信じ信仰を持って生きていくということは、私たちの命、存在そのものの根本、一番大切な所に関わる神からの恵みであることを知りたいと思います。イエスを信じることにより私たちの生き方が変えられ、罪の中から救われ癒され喜びの溢れる毎日を歩むようにされるのだということを感謝したいと思います。今日の聖書箇所、特に46節に記されている二つの基本的な事実を認めておきましょう。

1.イエスは「光」として世に来た

「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た」(イザヤ書9:2)、「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1:5)、「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた」(ヨハネ1:9)、救い主である主の到来を聖書では、このように「光」として描いています。そしてこの箇所では、イエスがその「光」であるということが記されています。これはクリスマスで語られる大切なメッセージなのです。神の御子である御方がこの世に下ってきてくださった。それは、「光」として、すなわち御子キリストが、救い主イエスとして、この世に来られたという事実です。私たちもそのイエス、「やみの中に輝く光」を直接頂く恵みに与(あずか)りましょう。
けれど、この箇所にはもう一つ見過ごしてはならない大切な事実があります。

2.やみの中にとどまることのないため

この言葉が指し示す事実とはすなわち、イエスと出会うことなしには、私たちは「やみの中にとどまり続けている者だ」ということです。これが決して見過ごしてはならないもう一つの事実なのです。クリスマス、イエスが「光」として下ってくださったと語りますが、なぜそのことに大きな意味があるかと言えば、もう一つの事実があるからです。それは、イエスと出会わないままでは、全ての人は、「やみの中にとどまり続ける」ことになるという、実に重要な事実です。「神を信じなくても生きていける」と言われる方がおられますが、その考えの前提となるのは、自分の生き方は自分で選べる、自分の力で幸せを手に入れることができるということになります。でも、聖書の語る事実は違うのです。イエスと出会い、イエスを信じることなしには、全ての人は事実として「やみの中にとどまり続けている」ということに気づいていないだけなのです。この事実があることを見抜いておきましょう。イエスと出会わないと暗い破壊的な人生を歩むことになるということを肝に銘じておきましょう。
イエスは私たちをさばくためではなく、光として私たちを救うためにこの世に来られた、まことの救い主であることを喜びましょう。私たちはそのイエスを信じてイエスと共に歩んでいきます!と信仰告白を明確に持ち、クリスマスの日々なのですから、私たちはクリスチャンとして、いつもにこやかに過ごしましょう。