御業の現われる信仰
イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「…この人に与えられた知恵や、この人の手で行なわれるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。…。」こうして彼らはイエスにつまずいた。…イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。
マルコの福音書6章1節~6節
先週の全国聖会は、多くの兄弟姉妹と共に恵み溢れる聖会となりましたことを感謝します!
今日の箇所は、イエスの生まれ故郷での物語です。普通、大成功を収めた人は、故郷の人々に大歓迎されるものですが、イエスの場合は違いました。イエスはこの時すでに権威ある教えを説き、力ある御業も行なわれ、その噂も広まっていました。これ以降、働きもどんどん拡大していきます。その状況で、故郷の人々はイエスに冷ややかで、「イエスにつまずいた」のです。そこでは力ある業を僅かしか発揮できず、「イエスは彼らの不信仰に驚かれた」のでした。マルコ4章35節からこの6章にかけて「信仰と御業」というテーマが流れています。ここで神の御業が妨げられた原因は、彼らの不信仰でした。彼らの不信仰を反面教師として「神の御業の現われる信仰」について3つのことを心に刻みたいと思います。
1.信仰を自分のこととして捉える
彼らは、イエスの知恵、御業を見聞きし認めはしたが、ただ驚くだけで、これらのことが自分にとって必要なことだと捉えることができなかったのです。そこに彼らの不信仰の要因がありました。私たちの信仰も自分自身の信仰として、しっかり捉えらているでしょうか? 他人事になっていないでしょうか? 他人事にならないために、聖書は個人的にあなたに与えられた神の御言葉、手紙であると、しっかりと理解し受けとめましょう。信仰は神とあなた自身との関係であるのですから、他人任せにしてはいけません。
2.もっとイエスに期待する
神はあなたの必要に応えて下さるお方です。教会は全ての物を全ての物で満たすお方の生きておられる所です。主キリストは全ての物を全ての物で満たして下さるお方です。マルコ4章35節からの力強い御業の数々、大荒れの湖に「黙れ、静まれ!」と命じ、静められたこと、悪霊の追い出し、長血の女の癒し、ヤイロの娘の癒し等…、イエスは、必ずその人の必要に応えられているのです! イエスからは必ず豊かな恵みが溢れてくるのです。このことを信じ期待しましょう。
3.固定観念を打ち捨てる
信仰が他人事になったり、神に期待できない理由は、私たちに巣食っている固定観念です。故郷の人々は、イエスについての固定観念にとらわれ、自分たちと同じ人間ではないかと言ったのです。その結果、イエスの知恵や御業を見聞きしても、その祝福を自分のものにすることができませんでした。なんと残念なことではありませんか! 私たちも彼らのように固定観念に縛られて祝福のチャンスを逃がしていることはないでしようか? 意外なものが固定観念であることにも注意しましょう。この世の常識では、物理的、医学的に不可能なことは確かにあるでしょう。けれど常識的法則を全部超えられるのが私たちの信じている神なのです。固定観念に縛られた人間の狭い世界から、イエスはあなたを解放して下さるのです。信じる時に働く大きな神の御業を引き寄せようではありませんか。神が私たちに与えて下さった恵みは、私たちが今まで経験した以上のもの、無限大のものなのです! この神にもっと期待して今週も主と共に歩んでまいりましょう。