神の作品とされる生き方

…話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」…「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。
私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。…
     ルカの福音書5章1節~11節、エペソ人への手紙2章10節

ガリラヤ湖で長年漁師をしていたペテロが、イエスの弟子とされ、後に彼が御霊に満たされてメッセージをしたとき、その一度のメッセージで3千人もの人が悔い改めて、イエスを信じ、弟子とされたと聖書には記されています。また、生まれつき歩くことのできない男の人に、イエス・キリストの名によって祈り、その男の足を癒し立たせた、という奇跡も聖書には記されています。人々は病人を大通りに連れてきて、寝床に寝かせたまま、ペテロが通るときにその影にかかるようにするほどになり、エルサレム周辺の町々から大ぜいの病人が集まってきて、その全部が癒されたとも記されています。またペテロは、厳しい迫害の中で捕らえられ牢に入れられた時、御使いによって救い出されるという不思議な体験もしています。このような大きな働きをするペテロですが、彼はいったい何者なのかというと、無学な普通の漁師でした。漁師の普通のおじさんが世界中に名前が知られ、神のために大いに働き、大使徒として用いられ、「神の作品」として輝けた理由が何であったのか。私たちも神の作品として輝いて生きる者となれるように、もう一度聖書を通して彼がどのように歩んだのか確認していきましょう。

1.結局は、ただ主に従った

簡潔に言うと、ペテロはただイエスの言葉に従っただけなのです。イエスから「舟を漕ぎ出してくれ」と頼まれて漕ぎ出し、「沖に出て網を下ろしなさい」と言われ、その通りに行いました。夜通し魚も獲れず疲れ果て、イエスの言葉に疑念を抱いていたことでしょう。しかし、ここでペテロが告白した言葉と行動に私たちはしっかり学ばなければなりません。ペテロがイエスの言葉に従い網を下ろすと、2そうの舟が沈みそうなほど大量の魚を獲ることができました。

2.体験で学んだ

ペテロは漁師として家族を養い、若い者に技術を教える、言うなれば完成した人生であり、漁師として祝福されていたのもまた事実でしょう。しかしここでペテロは、イエスに聞き従えば必ず祝福されることを体験します。またイエスの言葉は、常識や自分が長年培った漁師としての経験や知恵や知識よりも遥かに優れたものであることを知ります。そしてその後、人を獲る漁師になり、「神の作品」として善い行いができるように導かれていったのです。もしこの時、「舟を漕ぎ出せ」というイエスの言葉を聞かず断っていたら、ペテロはただの漁師を続けていたことでしょう。

3.最善の道は神に聞く

私たちは自分の考えを持ち、経験や知恵、知識もあります。自分のしたいことや理想を持って生活しています。ゆえに「自分が生きたいように生きるのが私たちの幸せだ」と考えてしまいがちです。でもその生き方が本当に最高に幸せな生き方かどうかは、人にはわかりません。神があなたのために備えておられる、あなたが「神の作品」として一番輝く生き方は、神に聞かなければわかりません。神はあなたがどうしたら「神の作品」として輝ける人生を送ることができるのかを知っています。モーセが一番輝いたのは、80歳からですから、「もう遅い。手遅れだ」と思ってはいけません。私たちは今一度ペテロのように、神の言葉をしっかりと聞くことのできる者となりましょう。