赦されること 愛すること
…その町にひとりの罪深い女がいて…泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。…イエスは…言われた。…「…ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。…金貸しはふたりとも赦してやった。…ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」…「この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。」…イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。…」 ルカの福音書 7章36節~50節
罪深い女の、悔い改めと感謝の涙を、主イエスは、“わたしを愛して、よいことをしてくれた”と見てくださいました。そして、主はシモンと私たちに語られます、「あなたにどうしても言いたいことがある」と。
1.どうすれば、もっと主を愛せるのか?
どうすれば、もっと多く愛せるのか。主はたとえ話を通し、パリサイ人シモンに教えられました。答えは、もっと多く赦されることです。それでは、もっと多く罪を犯し、もっと多く赦されればよいのでしょうか。絶対にそんなことはありません(ローマ6:1-2,15参照)。私たちの内には、したいと思う善を行なわず、したくない悪を行なう原罪があります。そんな私たちはどうすれば救われるのでしょう。 「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」(ローマ7:25)。赦される大きさは、支払われる値で決まります。みんな同じ、神の子の命という測り知れない犠牲が支払われています。誰もが限りなく多く赦されています。だから、誰もがもっと多く愛する者となれるのです。
多く赦され、多く愛する罪深い女の姿は、教会の姿そのものです。救いは行ないによらないと知りながら、なぜ、主を愛し、良い行ないをするのでしょう。それは、こんなにも愛されいてるからです。これほど多く赦されている感謝が、そうさせるのです。
2.あなたは見ていますか?
「この女を見ましたか」と主に問われたシモンは、彼女を罪深い女と見て、さばいていました。彼は見ていませんでした。主を愛する彼女の背後にある主の大きな愛と赦しを。以前の罪深い女はもういません。そこにいるのは、ひとりの罪から救われた神の子どもです。主はそう見てくださる。そのように私たちも見る。そのとき、世界は違って見えてきます。主が代わりに死んでくださったほど貴くかけがえのない神様の宝物のような人々で満ちている世界が見えてきます。そこに、教会の本当の姿が見えてきます。
そして、自分の本当の姿を見ていますか。シモンは、多くの罪の借金があるのは、自分ではなく、罪深い女の方だと見ていました。しかし、主は問われます、わたしを愛し、良いことをしているのは、あなたですか、彼女ですか。多く赦されなくてはならないのは、どちらですか。シモンと共に私たちも答えたいと思います、「主よ、それは私です」。だから、多く赦され、多く愛する者となれるのは、あなたなのです。
3.赦されること、愛すること
主は、多く赦されたら、多く愛するとも、逆に、多く愛したから、多く赦されるとも語ります。赦されることと愛すること、実はそれは一つなのです。本当に赦されたら、同時に、愛する者となるのです。赦しは、過去を変えるのではなく、「今」を変えるのです。
そして、主は、どれほど愛して赦してあげたかは語らず、「この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです」と、彼女の救いをまるで彼女のお手柄のように喜ばれるのです。この主の言葉を聞くとき、私たち全ての人間の、自分を誇り、自分の手柄とする言葉は恥じ入るしかないと知るのです。「いえ、主よ、全てはあなたのおかげです」としか言えない、この御方を愛さずにおられない、私たちは主を愛する者となるのです。主に赦されている感謝が、私たちをそうさせるのです。