天国が見えていますか?
天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。…それから、九時ごろ…十二時ごろと三時ごろ…五時ごろ出かけ…夕方になったので…言った。『…最後に来た者たちから順に…賃金を払ってやりなさい。』そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。最初の者たち…もやはりひとり一デナリずつであった。…彼は…言った。『私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」 マタイの福音書 20章1節~16節
これは天国のたとえ話です。このたとえ話から、天国が見えてきます。それは、どんな世界でしょう。そこに入るのは、どのような人なのでしょう?
1.恵みを知る人
あとの者が先になり、先の者があとになる…、主が真っ先に天国に迎え入れてくださるのは、恵みを知る人です。もらえるはずのないものをもらう、それが恵みです。朝早くから働いて、丸1日分の賃金の1デナリもらって当然と思っていた最初の労務者よりも、ぶどう園の主人は、5時に雇われて1時間しか働かなった最後の労務者に真っ先に1デナリを与えたのです。なぜしょう? それは、彼が、もらえると思っていなかったからです。もらえるはずがないと思って、それをもらって大喜びする、そんな人に真っ先に恵みを与えたい、主はそのような御方です。永遠の命、救い…、もらえるはずのない恵みをもらって喜び、感謝する世界、それが天国です。教会です。
2.主と共に働くことは恵み
最初の労務者は「私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです」と言いました。彼らは主人と共に働けるのが恵みなのを忘れ、喜びを失っていました。しかし、最後の労務者は、5時まで仕事がなく、何の稼ぎもないまま家に帰るしかなかったのに、善い主人に雇ってもらい、1時間でも働けることを喜びとし、恵みと感じていたことでしょう。主が真っ先に恵みを与えたいのは、そのような人です。
自分はこんなに長い間、苦労して信仰しているのにと思うなら、それは違います。主と共に生き、働けることは、恵みです。幸せです。主と共に生きることを苦労と感じるなら、天国ではつとまりません。主と共に永遠に生きるのが、天国だからです。
3.主をどう見るか?
最初の労務者は、主人を「ねたましく(悪く)」見ていました。もらうものをもらったら、そんな主人とはオサラバして家に帰ろうとしていました。しかし、最後の労務者は、こんなにもらって、なんて「気前のいい(善い)」方なんだと、そんな主人から離れたくなく、1デナリもらったあとも、ずっとそこにいたのです。「主は善い御方、私はあなたから離れません」と言う人に、主は真っ先に天国の恵みを与えたいのです。
4.神の恵み・天国が見える
最初の労務者も、心の目がよくなったら、気づくはずです。もらって当り前と思い上がり、主と共に働くことを喜びとせず、主を不公平な悪い方と見ていた自分こそ、もらえる資格のない者だったと。そんな自分にも1デナリくださった、それは主の恵みだと。「こんなにもらっていいんですか」と言うべきは、最後の労務者だけでなく、私も、みんなそうです。こんな私が1デナリもらえるなんて、そんな恵みで今日も生かされ、日々生かされ、永遠の命にまで導かれる…。すべては主のおかげ、神の恵み。それに気づくとき、天国が見えてきます。「こんなにもらって、よかったね」と互いに喜び、主に感謝し、神の恵みがほめたたえられます。「ハレルヤ! 主よ、ありがとうございます」と何度でも言います。永遠に言い続けます。やめろと言われても、やめません。神の恵みが見えるからです。天国が見えるからです。