いやされるために主の恵みの原則に立とう
イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである。見よ。天ともろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、あなたの神、主のものである。主は、ただあなたの先祖たちを恋い慕って、彼らを愛された。…もううなじのこわい者であってはならない。…
申命記10章12~22節
今日は癒しの礼拝です。症状が改善するという表面的な癒しだけでなく、根本的に命の与え主である神と結びつくことを求めましょう。そうすれば自ずと恵まれ、健康で祝福された人生が与えられます。
この申命記は、モーセ5書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)と呼ばれるものの最後の書物。神の民イスラエルがエジプトでの奴隷生活から解放され、約束の地カナンに、今まさに入ろうとするまで、指導者モーセを通して現わされた神の愛や御計画が総括され、祝福の原則が念をおして書かれています。神は出エジプト記15章で「わたしは主、あなたをいやす者である」と語り、災いや病をもたらすのではなく、私たちを愛し祝福する神であると約束しています。では、どうすれば私たちは神の恵みをいただき、幸福になれるのでしょうか。13節に「主の命令とおきてを守ることです」とありますが、神の御命令とは何か共に学んでまいりましょう。
1.真心から主を礼拝し、仕えて歩む
信仰とは、単に教えを理解するだけでなく、あなた自身が神との関係を持つことです。うわべだけの関わりではなく、心の底から神に結びつくのです。モーセは6章で「心を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と語ります。申命記にはこのフレーズが何度も出てきます。うわべだけで神と関わるのではなく、心の底から神と結びつき、真心から主を礼拝し、主に仕えて歩む者でありたいと思います。癒しを求める時、私が癒されたいのは、あなたをもっと愛し、仕えるためですと信仰の真心をこめて祈りたいと思います。
2.かたくなな心から離れよう
16節に「心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない」とあります。形としての割礼の儀式ではなく、心にちゃんと割礼をほどこしましょう。また、うなじがこわいとは、かたくなで言うことを聞かないという意味です。私たちは、頑固でひねくれて、神の言うことを聞かない者であってはなりません。聖書には心を柔らかくし、素直に神の御言葉を受け入れなさいと繰り返し語られています。最近では自分らしさが強調されますが、行き過ぎてわがままを押し通すのではなく、常に神の前に遜(へりくだ)り、素直で心の柔らかい者でありたいと思います。神に喜ばれる者へと変えられるように祈りましょう。
3.信仰をもって誓いながら前進しよう
20節にあるように、信仰とは、心の思いや頭の中だけの理屈で終わらせるのではなく、神に誓って願いながら、神に教えられたこと、喜ばれることを積極的に実行することです。毎日の生活の中で祈り、御言葉を学び、神の前にひざまずく礼拝の時間を持ち、教えられた良きことがらを素直に行動に移すことです。人を憎むのではなく、赦し愛するのです。主に仕え、奉仕し、伝道するのです。それが主の御命令を守り行うことになります。申命記には、神の祝福を手にし、幸福になるための法則が書かれています。神の恵みをいただくために、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして真心から主を求めてまいりましょう。神の恵み、命の与え主、私たちの人生を健やかに導いて下さる神に、根っこの部分で結びつく私たちでありたいと思います。