信じてイエスと共にあずかるいやしの恵み

…父親は言った。「幼い時からです。この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」イエスは、…汚れた霊をしかって言われた。…するとその霊は、叫び声をあげ、その子を激しくひきつけさせて、出て行った。…                            マルコの福音書9章14節~29節

今日は癒しの礼拝。今まで何度も取り上げた悪霊に取りつかれた少年の有名な物語ですが、今日は特に、できる、できないという言葉が繰り返される物語の展開に注目し、イエスだけが癒すことができる、その信仰をしっかりと高めていきたいと思います。

1.人々には少年を癒すことができなかった

少年は幼い頃から、悪霊に取りつかれ、しばしば泡を吹き倒れ、命も危ない状態でした。父親は、医者、祈祷師を訪ね、人にできるあらゆることを試しましたが、癒されません。万策尽きた父親は、イエスのうわさを聞き、イエスの所にやって来ます。そこには弟子たち、律法学者、見物客がおり、色々議論しますが、誰にも少年を癒すことができませんでした。

2.愛情が深くても癒すことができなかった

愛の中でも特に強いのは、親子の愛です。子供が苦しんでいるなら、何でもしたいと思う素晴らしい愛です。しかし、父親がどんなに一生懸命でも、愛情がどんなに深くても、人間の力には限界があり、癒すことができなかったのです。現代の私たちも病気や悩みの中で、どれほど人に相談し、病院に行っても、手術をし、薬を飲んでも、愛情が深くても、人の力や世の中の力ではできない事が起こりうるのです。人々にも父親にも癒すことができなかった。しかし、イエスだけが全く違った感覚を持っていました。父親が、弟子たちにお願いしたが、できなかったと言うと、いつまで不信仰なあなたがたと一緒にいなければならないかと、不機嫌になります。また、憐みを乞うように、できるものならと語りかけた父親に「できるものならと言うのか、信じる者にはどんなことでもできる」と中途半端な信仰に語気を荒げられます。

3.イエスだけが癒すことができた

イエスご自身が持たれた権威、神の力、御名の権威、イエスご自身の愛によってお命じになった時、悪霊が出て行き、彼は完全に癒されたのです。本物の癒しを求める時、イエスの元に集いたいと思います。イエスしかできないこの恵みを、私たちは信仰によって、イエスと結びつき、イエスと私たちの信仰を重ね合わせて、恵みをいただきましょう。

4.イエスを信じるならどんな事でもできる

信じない者にならないで、信じる者になりましょう。「信じる者にはどんなことでもできる」と書かれている通り、イエスを信じるなら、人にはできなかったことができ、主と同じ御業が起こされるのです。
ビル・ウイルソン師は、いつも、「たった1人の人でも必ず価値ある変化を生み出すことができる」と語ります。それは、信仰によって、私たちの心をイエスの御心に結び合わせるからです。イエスなら、どうされるだろうか。道端に捨てられた少年をイエスだったら、見過ごしにするだろうか。1人の平凡なクリスチャンの男性がビル先生に声をかけたことで、その1人の魂を救いへと導き、さらに神が想像以上の御業をなして下さり、先生は世界最大の教会学校の牧師になりました。今日求める癒しも「神にはどんなことでもできる」と信じることによって起こされる救いの御業です。イエスの御心と私たちの心をすり合わせ、イエスと共に信じる者となり、恵みをいただきましょう。