信仰の勇者たる者
…ケナズ人エフネの子カレブが、ヨシュアに言った。「…主のしもべモーセがこの地を偵察するために、私をカデシュ・バルネアから遣わしたとき、私は四十歳でした。…私は私の神、主に従い通しました。そこでその日、モーセは誓って、『あなたの足が踏み行く地は、必ず永久に、あなたとあなたの子孫の相続地となる。あなたが、私の神、主に従い通したからである。』と言いました。…主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。…どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。… ヨシュア記14章6節~15節
今日の聖書の箇所には、「男の中の男」と言われるほど勇ましい人物のことが書かれています。その名はカレブ。この物語から遡ること40数年前、モーセは、神が与えると約束された「乳と蜜の流れる地」カナンに、12人を選び偵察隊として送りました。40日後に帰ってきた彼らは、「土地は確かによいが、そこに住む人々は自分たちよりも大きく屈強だ」と報告し、人々の心をくじけさせ、エジプトに帰ろうとまで言わせました。そして、神を怒らせ、エジプトから脱出してきた第一世代の人たちは決して約束の地には入れないと言われ、40年間の荒野の旅が始まったのでした。しかし、ヨシュアとカレブだけは、「上って行こう。必ず、私たちにはできるから」と人々を励ましました。エジプト脱出から45年後、戦いが落ち着き、土地の分割を行う時にユダ族のカレブが、約束の地を下さいとヨシュアのところにやってきました。その時、カレブは言います。「主が約束どおり45年間生きながらえさせてくださいました。…今でも私は壮健です」(10,11節)と。このカレブから、「信仰の勇者」とはどんな人のことか考えていきましょう。
1.決してくじけない人
一緒に偵察に行った人々は、「よい土地を見たが、そこに住む人々は、自分たちより大きく強そうだった」と言います。それは間違いないことかもしれません。しかし、カレブは「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから」(民数記13:30)と、前に行くことしか考えませんでした。私たちは、小さいことですぐに怖気づいてしまいます。チャレンジして失敗してくじけるのではなく、何かをする前から勝手に怖気づいてはなりません。立ち向かってこそ、勝利する可能性が生まれるのです。主が私と共にいて下されば(12節)、自分がどんなに小さくても弱くても、くじける必要はありません。
2.主と主の約束を当てにして生きる人
なぜカレブはくじけなかったのでしょうか。主の約束を忘れなかったからです(9,10節)。人は、時として一番当てにならない自分の力を当てにしてしまうものです。また、人に期待してもいけません。勝手に人を当てにして、その期待が外れると、失望し裏切られたと思ってしまいます。私たちが期待すべきは、主の約束だけです。神の約束は、45年間、いや永遠に変わらないのです。神の言葉を当てにして生き抜くのが信仰の勇者です。
3.主にある可能性を口にする人
民数記13:30で「必ずそれができるから」とカレブは言いました。自分にある不可能ではなく、主にある可能性を語るのです。神にあって、私たちは何でもできるのですから、「できない、ダメだ」と言うのではなく、小さなことから「私にはできる、大丈夫だ」と言って事を始めていきましょう。そうすれば、主が私たちと共にいてくださって、変わらない主の約束の確かさを教えてくださいます。エゼキエルは干からびた骨を前にして、「この骨は、生き返ることができるか」という主の問いに、「主よ、あなたがご存じです」としか言えませんでした。しかし、私たちは、「主よ、人にはできませんが、あなたが共にいてくださるなら、できます」と告白して歩んでまいりましょう。