イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。…神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。 第一ヨハネの手紙5章1節~5節
今日は母の日、母親である姉妹たちの深い母親の愛を感謝します。労を労(ねぎら)い豊かな恵みで報いて下さいますようお祈りします。また、私たちの名はクリスチャン。使徒の働きで弟子たちが初めてクリスチャンと呼ばれるようになったのは、人々が聖霊の豊かな働きを見て、イエスを救い主と信じたからです。私たちはその名に相応しく歩んでいるでしょうか。今日は聖餐式礼拝、初心に立ち返りましょう。今日の箇所にはクリスチャンとしてのいのちの本質が記されています。ここから3つのことを学びます。
1.キリストの愛によって生まれた者
1節にあるように、誰でもイエスを信じるならば、キリストの愛、罪人のために命さえ捨てるほどの愛で、生まれ変わらせていただき、新しい命を与えられます。それでも、私たちは時に悩み、ネガティブになり、自分を見失うことがあります。しかし、イエスを信じ、救い主として心の中に受け入れたあなたの命は、神の愛によって生まれたものであることを思い出して下さい。アメリカ大リーグのドジャース(チームカラーは青)の名監督トミー・ラソーダは、非常なチーム愛で「俺の体を切ってみろ!ドジャーブルーの青い血が流れ出る」と言いましたが、神によって生まれた私たちクリスチャンには、イエスの血潮が注がれています。救い主としてイエスはご自身の血潮、命そのものを与え、愛を注いで下さったのです。霊的な意味でクリスチャンのこの身体、その血潮は、キリストの血潮であり、もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内にあって生きておられるのです。
2.キリスト愛に従って生きていく者
私たちは、単に救われて後は好き勝手に生きていくのではありません。十字架によって贖われた者ですから、キリストの愛によって生きるようにされました。キリストの愛を自分の生活の中で形にしていくのがクリスチャンです。自分だけでなく、神の愛によって生まれた兄弟姉妹を互いに愛する者でありたいと思います。「わたしがあなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」とあるように、愛することは神のご命令です。この命令を守ることは、イエスが私たちを愛し、命まで捨てて下さったのですから、苦痛とはなりません。キリストの愛を手本として、人を愛することを深めてまいりましょう。
3.キリストの愛による勝利の約束
愛だ、慈しみだと言っても、キリスト信仰は優しいだけのものではありません。「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか」と書かれている通り、本来神が与えて下さった信仰は、勝利する信仰です。病気のこと、経済のこと、どんな困難や試練が取り囲んでも、パウロが言っているように、これらすべての中においても、私たちは圧倒的な勝利者とならせていただけるのです。世の中の常識や人の悪意に、絶対負けることはありません。私たちはキリストの愛を持って、強い思いを持って悪に打ち勝つ者となり、神の栄光を現わすことができます。キリストが共にいて勝利することを約束して下さっていますから感謝です。
この初夏の日々、クリスチャンのあるべき姿に立ち返り、生き生きと喜んで歩んでまいりましょう。