死の恐怖につながれたものの解放

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。…そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。
…主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

ヘブル人への手紙2章14節~18節

2015年がスタートして、1ヶ月が過ぎました。一年で一番寒い時期ですが、礼拝の中で聖霊によって魂のど真ん中から燃やされようではありませんか。
イスラム国によって拘束されていたジャーナリストの後藤健二さんが殺害されたというニュースが飛び込んできました。伝えられるところによると、後藤さんは、世界の様々な紛争地や困難な環境にある人々(特に子どもたち)の現状を伝えようと活動していたということです。まったく卑劣で許されない犯罪です。聖書には「悪魔という、死の力を持つ者」が実際にいるとはっきりと書かれています。私は明日からミャンマーに伝道に出かけます。急激な経済発展を始めた国の人々が、拝金主義に陥ってしまう前に福音を伝えなくてはと、軍部の締め付けが強い中、ムーイ先生と2人で4日間にわたって2万人の大集会を予定しています。聖書の御言葉に立つ生き方があることを人々が知ることができるようお祈りください。安全な日本と違い、海外伝道では、危険な目に遭うこともしばしばです。しかし、伝道者として、神に祈って与えられた仕事ですので、迷いなく、喜んで、全力を尽くし福音を語ることに集中したいと思っています。
今日の聖書の箇所は、聖餐式にふさわしい御言葉として神から与えられた御言葉だと思います。

1.死の恐怖につながれた奴隷の私たち

人間的な観点からは、道徳心や倫理観の強い“立派な人格者”はたくさんいます。しかし、聖書に「義人はひとりもいない」とあるように、神の前で義と認められるような正しさを持つ人は一人もいないのです。誰もが罪人であり、悪魔の奴隷であり、死の恐怖につながれて滅んでいたのです。テロリストに捕らえられているわけでもなく、多少の心配はあっても平穏無事な生活を送ることができていて、自分は違う、と思うかもしれません。しかし、それは体が拘束されているかどうかの問題であり、魂、霊的な部分においては、神の愛とキリストの犠牲なしには、悪魔の奴隷のまま死の恐怖につながれて滅びるだけの者であったことを素直に認めようではありませんか。

2.キリストの身代わりの死による解放

私たちと同じ肉体を持ってお生まれくださったイエス・キリストが、十字架にかかって罪をなだめるための身代わりの死を遂げられたことにより、私たち人間を罪の力、悪の奴隷状態から解放してくださいました。私たちが受けるべきのろい、裁きをすべて身に負って、死んでくださったのです。これは、聖書が語る最も大きな事件であり、人類の歴史上最大の出来事です。

3.私たちも受けられる十字架の救いと恵み

キリストご自身が、私たちと同じようになられて苦しまれたので、同じような苦しみや弱さを持つ私たちを助けることがおできになります。弱さ、足りなさがいっぱいある私たちも救われるのです。世の中には悪の力、罪がはびこっています。キリストの愛、神の救いをいただかなければ、その冷たさ、辛さ、空しさから解放されないのです。ただ知識としてではなく、聖餐式を通して、イエス・キリストが私を愛して救ってくださり、作り変えてくださる十字架の恵みを自分のものとしていただこうではありませんか。