主の御言葉に立って赦すこと

ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。                  ルカの福音書6章35節~37節

今日は聖餐式です。「自分の敵を愛しなさい」「さばいてはいけません」今日の御言葉は文字通り、イエスの肉声です。もう1度お声を聞きながら、自分の心の中を確認したいと思います。そのための目の付け所が3つあります。

1.憎しみや怒りを心の中に宿していないか

私たちはイエスを信じ、罪から救われ、愛を知りました。今日も十字架で流された血潮を忘れないよう聖餐に与(あずか)ります。また、主の祈りでは「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく…」と祈り、愛に溢れた人であるはずです。しかし、人を嫌ったり、敵意を持ったり、ドロドロした思いが心の中に宿っていませんか。クリスチャンで愛に溢れているはずですが、実際には、職場の同僚や、友人、愛をもって共に歩むべき家族、兄弟同士、親子、夫婦の間でも赦せない気持ちがあったりします。私たちの心の中には、常に罪や悪の力が侵入しうる危険性があるのです。だから、イエスは「自分の敵を愛しなさい」「さばいてはいけない」と語られたのです。今、世の中では原発や安全保障に対して反対デモが行われ、戦争反対と言いながら、心の中では人を憎み、実際に人を傷つけてしまうほどの、恐ろしい人間の現実があることを知らなければなりません。

2.愛すること、赦すことを選ぶ

イエスはだれに対しても、愛すること、赦すことを心がける方が良いと、生の御声で語られました。裁くことよりも赦すことの方がより価値があると言われました。クリスチャンになったからといっても、すぐに完璧にはなりません。弱く中途半端な者です。しかし、諦めずイエスが指し示して下さった良きものを目指して、歩むことに価値があります。神の御言葉の原則を知っているあなたが怒るのは、よほどの理由があるのだと思います。それでもなお、赦し愛することの方が良いのです。憎みさばくより、赦し受け入れることを選び取ろうではありませんか。「あなたの敵を愛しなさい。赦しなさい。そうすれば赦される」とイエスが肉声で語って下さいました。イエスの愛と赦しによって聖められ、憎しみや敵意から解放されることを願おうではありませんか。

3.主の愛と赦しを忘れない

私たちは皆、自分自身が罪深いことさえ知らなかったとんでもない罪人でした。その私を、憐み、愛し、主が救って下さったことを感謝しましょう。人を赦し、愛せないのは、罪人で、愛される資格もなかった自分が、赦され愛されている事実を忘れているからです。イエスは天の父なる神が恩知らずの悪人にも憐み深いように、あなたも憐み深くしなさいと語られました。恩知らずの悪人は私たちのことです。イエスが十字架にかかり救って下さったのに、その愛をしばしば忘れる恩知らずです。自分が愛され赦されたことを思い出せば、周りの人を裁いたり、嫌ったりせず、赦し愛することができます。マタイ18章に王様から膨大な借金を赦してもらったしもべが、自分が貸した金を返せない人を赦さなかったたとえ話があります。私たちは、なかなか人を赦すことができません。イエスを愛し、イエスの愛で敵をひとりでも赦し、愛することができるよう、祈る者でありたいと思います。