主の御名の力を体験しよう

・・・ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「・・・この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、・・・イエス・キリストの御名によるのです。・・・この方以外には、だれによっても救いはありません。・・・」彼らは・・・ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。・・・そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。」・・・

使徒の働き4章5節~22節

この時期は、全国各地でマラソン大会が多く行われます。参加する人々は、もちろん走ることが好きで大会に挑みます。しかし、ただ好きだからといって、大会では決められたコースや距離を勝手に自分で変えることはできませんし、完走しなければ正式な記録として残りません。信仰生活でも同じことが言えるでしょう。“一応クリスチャンになったから”ではいけないのです。主の真理から外れることなく、主の道を歩み続けたいと思います。
今回の箇所では、前章から物語が続いています。ペテロとヨハネが、「美しの門」で足のなえた男性を癒したことにより、騒動が始まりました。大祭司たちは出来事を知り、ペテロとヨハネに「何の権威により、また誰の名によってこのようなことをしたのか」と厳しく尋問します。
信仰による2人の答えと行動には、現代を生きる私たちクリスチャンへの教えがあります。

1.イエスと共にいる

素晴らしい御業を起こしたにもかかわらず、取り調べられ尋問された2人は、「イエス・キリストの御名によるもの、またこの御名の他に救われるべき名はない」と宣言します。あまりにも、2人が大胆に答えるのを見て、大祭司たちがペテロとヨハネがどういう人物か調べると、無学な普通の人だったということを知り驚きます。そればかりではなく、2人がイエスと共にいたということが分かったのです。2人はただイエスの御名を使っただけではなく、イエスと常に共にいたのです。祈りの中でも、イエスが共にいることを思い起こしてください。世の終わりまであなたがたと共にいると約束して頂いているではありませんか。そこにイエスが共にいなければ、意味がないのです。

2.御名により語り・教え・祈り合う

イエスを信じる者が増える中、大祭司たちはこれ以上広がらないように、今後その名によって語ったり、教えたりしてはならないと命じます。それは逆に言えば、ペテロとヨハネがイエスの御名を語り、教え、兄弟姉妹と共に祈り続けていたということです。2人は、決して立派で特別な人間ではなかったのです。どこに癒しの御業が起きる違いや恵みの連鎖がありますか? イエスの御名に秘訣があり、力があるのです。そして、誰にでもその名は用いることができるのです。

3.御心に従い実践する

ペテロとヨハネは厳しく戒められても、「自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません」(20節)と、大祭司たちに聞き従うことはしませんでした。人の命令ではなく、福音を述べ伝えよという神に聞き従ったのです。信仰は、単なる教えや理屈、概念ではありません。御言葉を聞き実践してみることです。私たちは社会から見ると無名の1人かもしれません。しかし、イエスが共にいるクリスチャンです。世に聞き従わず、神に聞き従うと選択したはずではないですか。私たちは恐れないでイエスの御名により語り合い、教え合い、祈り合い、イエスの御名による不思議、御業を体験しようではありませんか。今も生きて働かれる神は恵みをもって私たちを祝福してくださいます。