救い主に焦点を合わせて信じよう
また、イエスは大声で言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。
ヨハネの福音書12章44節~47節
皆さんの10月のスタートは順調ですか。秋のさわやかな気持ちのいいお天気の中で、神の恵みをしっかり受け止め、恵みの秋の日になりますように。
去る1週間、私はインドネシアで神学校の講義をしてきました。インドネシアは世界一イスラム教徒が多い国ですが1980年代からリバイバルが起こり、熱心なインドネシア人の神学生が学んでいます。彼らは、宣教のビジョンのためならいつでも、どこへでも行くと言います。日本の社会では、衣食住から仕事や健康に至るまで様々な心配事で頭がいっぱいです。しかし、クリスチャンは、「神の国とその義とを第一に求めなさい。そうすればこれに加えてすべてのものは与えられる」というお約束の通り、恵みの神が、私たちの人生を導いて下さるのです。イエスが共におられ守られている者として、心を広げて、おおらかに、のびやかに歩んでいきましょう。
今まで、ヨハネの福音書でイエスがなさった7つの御業を通して、どのようにイエスを信じるかの秘訣を学んできました。それに加えて、イエスの最大の御業は、十字架の死によってイエスを信じる者に神の子供となる特権を与えて下さったという事実です。ここでは、あいまいな信仰ではなく、救い主イエスに焦点を合わせた信仰について学びましょう。
1.キリスト教は明確な信仰
日本では、クリスチャンでも熱心だとみんなに心配されますが、根拠のない占いやパワースポットは大好き。それこそ悪霊の巣窟で危ないのですから注意して下さい。日本人はわけの分からないあいまいな信心をよしとする傾向にあります。それとは正反対に、イエス・キリストを救い主と信じる私たちの信仰は、ただ一人の救い主に焦点を合わせた、創造主であるまことの神を信じる明確な信仰なのです。
2.光の世界にとどまる者となる
ヨハネの福音書でイエスは、イエスご自身やご自身がおられる霊的空間を何度も「光」と表現していますが、「光」とは対照的な「闇」の世界もあります。凶悪な犯罪に見るような明確な闇だけでなく、私たち自身の心の中にも誰にも知られたくない「闇」の世界がありませんか。他人を恨み憎み、自分を愛せないという、闇を背負ったままでは、決して幸せにはなれません。「闇」の中にとどまらないように、イエスの「光」で心をコントロールしていただきましょう。「光」の中にとどまり続けることを祈り、人を愛し赦すこと、自分の人生を喜ぶこと、感謝すること、よいことをどんどん行なっていこうではありませんか。
3.イエスは世を救うために来られた
の御子イエスが来て下さった第一の目的は、世を救うことです(47節)。イエスが救い主として世に来て下さった事実を私たちの魂に受け入れようではありませんか。わかっている、知っているというだけではなく、事実にしなければ、自分のものにはならないのです。日本には、「さわらぬ神に祟(たた)りなし」という諺(ことわざ)がありますが、それとは正反対に、イエスは世を救うために来られたのです。そして今も私たちの心に宿って下さっています。このことを聖書の中の事実だけに終わらせるのではなく、私たちの心の事実として確認していきたいのです。