救われた“事実”に立つ信仰

あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。兄弟たち。おのおの召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。
              コリント人への手紙第一7章23節~24節

 

ビル・ウィルソン師と共に各地を回ってたくさんの集会をして、3週間ぶりの松山での礼拝です。
ビル師は現代の華やかな社会の陰の部分に広がるスラム街で、毎週10万人の子どもが集う世界最大の教会学校を主催する牧師です。今回の集会では、毎回最後に私が祈りを導き、たくさんの皆さんが涙と共に献身の祈りができたことを感謝します。
先週のニュースで、北朝鮮の拉致の問題が進展しそうで本当に感謝します。この拉致や冤罪の問題もそうですが、人生の最も輝いている時間を無駄にしなければならないのは、本当に悲しいことです。私たちは自由であることを感謝し、囚われている人々が解放されるよう祈っていきたいと思います。
2000年前の聖書の時代には、まだ奴隷制度があり、教会の中には皇帝の家族から、兵士や奴隷もいました。パウロは、私たちは皆、罪の奴隷であったのに、イエスの十字架の死によって代価(身代金)が払われ、罪の束縛から自由にされたのだから、奴隷制度のことではなく、何かの奴隷になってはいけないと語っています。私たちは、自由で平等な世界に生きています。しかし、制度的な自由だけでなく、神にあって本当の自由を与えられているのですから、神によって与えられた使命やビジョン、役割があることを忘れないでいたいのです。

1.主の命によって贖い出された事実

世の中には多くの宗教があり、理想や理念が語られたり、死んだ後の期待や願いを表すものもあります。しかし、聖書の語る信仰は、単なる理念や理想や期待を土台としているのではなく、イエスが私を愛して十字架で死に、代価を払い救って下さったという事実に基づいていることを知り、感謝するものです。イエスがあなたのために十字架で命まで捨てて死んで下さり、罪の代価が支払われたという事実があることを感謝しましょう。

2.人の奴隷となってはいけない

私たちは幸い、今日も自由に礼拝に集うことができ、奴隷の人はいません。しかし、人が作り出した悪の奴隷になっていないでしょうか。お酒やたばこ、ギャンブルや性的なものの依存症から、スマホを手から放せないIT依存症まで、人間の作った様々な仕組みの奴隷になっては残念です。罪や悪の奴隷になっては、その先には破滅しかありません。
私たちは、イエス・キリストのしもべであり、同じ奴隷なら、神の奴隷でありたいのです。主よ、私がここにおります、私を遣わして下さいと願う者になりましょう。

3.救われたときの純粋な信仰を持つ

マンネリの信仰になっていませんか? クリスチャンになったばかりのときは、もっと純粋だったかもしれません。ここでの「召されたままで」というのは、救われたときの純粋さを失わないようにということです。黙示録で指摘されているように、初めの愛から離れてはいけません。今日は聖餐式ですが、私たちのために血を流し、死んで下さったイエスの体と血潮を意味するパンと葡萄酒をいただきます。私たちは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。イエスによって救われたときの喜びと平安をいつも忘れずにいたいのです。