三日坊主・中途半端な心構えに注意しよう

さて、大ぜいの人の群れが集まり、…イエスはたとえを用いて話された。…このたとえの意味はこうです。種は神のことばです。道ばたに落ちるとは、…みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、…みことばを持ち去ってしまうのです。岩の上に落ちるとは、…しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。いばらの中に落ちるとは、…この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです。しかし、良い地に落ちるとは、…しっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。
             ルカの福音書8章4節~8節、11節~15節 

 

人間は、人としての基本、根本的なあり方がしっかりしなければ、個性も生かされません。クリスチャンなら、神の御言葉を大切にするところから本当の成長が始まります。今年のテーマは、Seed(シード)-Faith(フェイス)。恵みを掴むために毎日信仰の種を蒔きましょう。
今日も種にちなんだ、有名なイエスのたとえ話で、マタイ、マルコ、ルカの3つの共観福音書に共通した物語です。まさにイエスらしい教えとして初代教会が大切にしたもの。頭の善し悪しにかかわらず、心が素直で神の言葉を聞く姿勢がある人に伝わるようにわかりやすく語られたものです。
種は、命のある神の御言葉ですが、それを受け止める畑である、私たちの心がまず良く耕されていなければなりません。心の状態を確認しましょう。

1.道ばたのような心

これは、悪魔の働きに対して防御ができず、むしろそれに汚染され翻弄され、神の御言葉をいただいてもすぐ奪われてしまう心です。
最近は、昔に比べて音痴と言われる人は減りましたが、困ったことに宗教音痴、神様音痴が増殖。神を信じたり、与えられた命や人からの愛情に感謝することができず、自分の身勝手な思いしか受け止められない人が急増しています。どれほど賢くても、高ぶった身勝手な人間にならないよう注意し、悪魔に救いのチャンスをいつも奪われる愚か者にならないようにしましょう。そのためには、単純に今日聞いた御言葉を忘れてしまわないことです。

2.岩地のような心

これは、御言葉を喜んで受け入れるが、試練に遭うとすぐに忘れる粘りのない三日坊主の心です。
聖書の時代の試練とは、命も奪われる迫害を意味します。私たちは、大した迫害も困難も試練もないのに、移り気で、すぐに初めの情熱を忘れます。今、与えられている思いがあるなら、聖霊が働いているのですから、信仰を燃やし、実現することを願おうではありませんか。

3.いばらの中のような心

信仰生活が長年続いているようでありながら、実際は、この世の心遣いや快楽に心がふさがれて信仰が成長しない人のことです。時代の流れだと言いながら、世の中に合わせて、実を結ばせない者になっていないか注意しましょう。クリスチャンとして種を蒔いてちゃんと成長させたいのに、世のことや人の言葉に気をつかい、新奇なものに目移りしているうちに実を実らせないで終るのは残念です。

4.良い地のような心

これは、忠実に御言葉を実行し、やり遂げる心です。しっかりと守り、よく耐えて実を結ばせるとあるように、継続し生活に定着させることが祝福の鍵です。神は変わらないお方、その神を信じる私たちも、妨げや妨害があっても常に神のしもべとして生きるのです。新年の新鮮さが薄れる今こそ、信仰の踏ん張りどころです。決めたことは始めること、そして続けることが大切。自分の心を優先して中途半端にならないよう、良い心を耕しながら種を蒔きましょう。