神を仰ぎ見て生きよ

…民は神とモーセに逆らって言った。「…パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。民はモーセのところに来て言った。「私たちは主とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、主に祈ってください。」モーセは民のために祈った。すると、主はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」…                     民数記21章4節~9節

 

今回の箇所では、エジプトから脱出したイスラエル人たちが道中、不平をもらし神とモーセに逆らって罪を犯し、神の裁きを受けたところから始まります。民が厳しい荒野の旅に我慢ができなくなり、「パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした」と神とモーセを非難しました。すると神は、燃える蛇を民の中に送られたのです。蛇は次々に人々にかみつき、イスラエル人の多くの民が死にました。非難したことを悔い改めた人々は、蛇を取り去ってくださるよう、主に祈ってくださいと、モーセに願ったのです。主は答え、モーセに青銅の蛇を作り、旗ざおの上につけるよう命じました。そして、蛇にかまれた者がいたとしても、その青銅の蛇を仰ぎ見ると生きたのです。
この箇所から、私たちは『神を仰ぎ見て生きる』ということを3つのことから学びたいと思います。

1.悔い改めて生きる

私たちは生きている中で、失敗や後悔があるでしょう。その度に落ち込み、自分で背負い込んではいないでしょうか。イエスが十字架にかけられた時、ユダは自分の罪を後悔し死を選んだのです。それに対し、イエスを知らないと3度言ったペテロは、それを悔い改めて偉大な指導者となりました。
また聖書には「悪者の死を喜ばない。かえって悪者が罪を悔い改めて生きることを喜ぶ」など、悔い改めることがいかに大事かという御言葉が数多く出てきます。
蛇を送られた民がすぐに悔い改めたように、主を仰ぎ見るとは悔い改めることから始まるのです。

2.常にイエスに近づこうとする姿勢

青銅の蛇を仰ぎ見るということは、現代の私たちにとっては常に主を仰ぎ見、イエスに近づこうすることと同じです。聖書には、イエスを一目見ようと木に登ったザアカイや、友人の病が癒されるように屋根を剥がして友人を吊り下ろしてまでイエスのところに連れて来た人々の物語が出てきます。同じような姿勢で、私たちも必死で主に近づこうとしているでしょうか。主の御元に行こうとする姿勢が恵みを受ける秘訣でもあるのです。

3.賛美して生きる

蛇を送られたイスラエルの民は、モーセに願って、蛇を取り去ってくださいと神に祈ってもらった時、神が出された答えは、人々を悩ます蛇そのものを取り去ることではなかったのです。
私たちは問題が生じた時、その問題である原因がなくなるように祈ったり労力を尽くしたりします。もちろん神は救いの道を与えてくださいますが、蛇にかまれても青銅の蛇を仰ぎ見れば生きたように、その問題があろうとも主を信じて仰ぎ続けることが大切だと教えられます。どんな困難の時でさえ、「私の口にはいつでも賛美がある」と告白したダビデのように、私たちも賛美をもって主を仰ぎ見て生きる者になりたいと思います。