救いの恵みに今応答しよう

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。…悪いことをする者は光を憎み、…光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。                 ヨハネの福音書3章16節~21節

 

神に期待する時に必ず恵みが与えられます。昨日は、大洲キリスト教会の建設予定地でイベントをし、たくさんの方が出向いてくださり幸いでした。一人でゲームをしていれば幸せというのは要注意。人は、人との関わりなしには幸せになれません。家族や友と喜びをもって過ごす時に祝福されるのです。
今日の箇所は、聖書の中で一番有名な御言葉です。それは、この言葉の意味がまさに聖書のメッセージそのものだからです。どのようなことが書かれているか見ていきましょう。

1.神がなされた最大の出来事がある

聖書の最も中心的なことは、イエスのご生涯です。そして、イエスのご生涯の中で一番大切な出来事は十字架の死です。
癌が進行して、神経や血管に絡みつき、癌と一緒にそれらを取り除くと命を失ってしまうので手術ができない、といった話を聞いたことがあるでしょう。同じように、私たちの罪は、心や魂の細かいひだの部分にまでしみ込んでいるのです。時には、自分は結構よい人間だと思うこともあるでしょうが、人を悪く思ったり、ふと悪いことを考えてしまったり、命そのものにまで罪や悪の力が入りこんでいると思い知ることがあるでしょう。私たちの罪を完全に断ち切るためには、死をもって取り除く以外にないのです。
そんな私たちの身代わりに、イエスが死んでくださり、私たちの罪を取り除き、イエスご自身の聖い命を与えてくださったというのが、イエスの十字架の意味です。神はそのひとり子を与えるほどにこの世を愛し、この最大の出来事を成就されたのです。それは事実として起こった出来事であることを知り、それを間違いなく自分自身のものとして受け止めたいのです。なぜなら、イエスを救い主として受け入れる以外に、私たちに救われる道はないからです。
神様からのこの働きかけを受け止めましょう。

2.罪に対する傾向を認めて神に立ち返る

18節からは、神の裁きについて書かれています。神は信じる者は救うが、信じない者には罰を与えるんでしょうと言われる方がおられますが、神は、愛をもって私たちを救おうとしているのです。問題は、私たちの側が神の救いに入ろうとしないことにあります。神は度量の狭い方ではなく、私たちを常に光に導いておられます。私たちの方が神の救いの領域に入らず、神の愛を拒絶しているのです。闇を好み、自分を変えたくないと言って、自ら裁きを選び取っていることを知りたいのです。
神はすでに御子をお与えになり、救われる道は私たちに与えられているという事実があるのですから、闇ではなく光を選び取ることです。ごく普通の人々による殺人事件のニュースを聞く時、誰の心の中にも闇があり、それを放置すると、とんでもないことになると思わされます。光の世界に入りましょう。イエスは自分のために与えられたと受け止める時、まだ天国に行っていなくても、救いを確信することができます。
聖餐式にあずかることは、神との接点を持つことです。闇から光へ、呪いから祝福へ、病や悩み、不安から解放されるチャンスです。それは、イエスが私の内におられることを確認する時だからです。