“いやされる信仰”を持とう

ルステラでのことであるが、ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれながらの足なえで、歩いたことがなかった。この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい。」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。…「…神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。…恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。」…                                                                                        
                     使徒の働き14章8節~18節

 

テレビの宣伝で、「あなた作る人」「私食べる人」という宣伝がありましたが、誰かがやってくれれば楽ちんという生き方より、人生は積極的に関わった方が幸せなのです。主の癒しも人任せにせず、自分の信仰を働かせてみようではありませんか。
バルナバとパウロが伝道旅行で癒しの御業を行いました。ルステラでパウロの劇的な癒しのシーンを目撃した人々は、彼らの信じるギリシヤ神話の神が人の姿を取ってやってきたと言い始めたのです。
聖書は、パウロがこの人物に癒される信仰があるのを見たと書いています。あなたにはどんな信仰があるでしょうか。イエスを信じているでしょうが、果たして癒される信仰をお持ちでしょうか。自分の病気は治らないと決めつけたり思い込んだりして、それが固定化し、癒されない信仰になっていないでしょうか。今日見直してみましょう。

1.癒しにふさわしい積極的な信仰を願う

パウロは、群衆の中で、この人物に癒される信仰を見たのです。パウロでさえ、聖霊によってそれを見抜くなら、イエスは当然あなたの信仰を見抜かれます。あなたには、信仰があるから今日も教会に来ています。しかし、同じ信仰でもその用い方に、積極的か消極的かの違いがあるのです。
ここ松山の人はおとなしい人が多く、学校でも先を争って手を挙げることも少ないかもしれません。私が司式をする結婚式でも、みんな席を譲り合って、なかなか前に座りません。牧師として、非常に寂しい思いをすることがあります。教会でも後ろの席に座るという方も、私でなくイエスが来られたら一番前に座ることでしょう。生きているかどうかわからない信仰ではなく、積極的に、信仰の目をきらきら輝かせて主の恵みを求める者になりましょう。イエスが今日、この礼拝に集う私たちの内に、癒される信仰があるのを見られますように。

2.神は祝福の神

それでは、癒される信仰は、がんばった特別な人でなければ手に入らないのでしょうか? パウロが、癒される信仰を持つこの男を見つけて人々の目の前で劇的な癒しをした時、人々は驚いて、彼らの宗教的な理解の中で、ギリシヤ神話の神にパウロたちを当てはめて拝み始めようとしました。パウロは、慌ててそれをやめさせようとして、私たちは生ける神のしもべであり、イエスの福音を語っているだけで、神は、あらゆる国の人々に恵みを与え続け、今は、イエスにより、生ける真の神に立ち返るための福音が与えられているのだと語ります。
癒される信仰を持とうというのは、神の恵みが少ないから積極的に求める方がいいというのではありません。神は、私たちが罪深くて幸せになれないなら、罪の身代わりにイエスを与え、永遠の救いを与える恵みの神、愛の神です。この神の恵みをしっかりといただきたいのです。罪の悔い改めは必要ですが、罰を与える神が怖いから悔い改めるのではなく、祝福の神が、その愛のゆえに、方向転換の機会をイエスを通して私たちに与えておられるのです。イエスによって与えられる恵みの中には、当然癒しも含まれています。癒されるべき信仰を自分の中に意識しながら祈りましょう。