すべての人に及ぶ神の御業

激しい論争があって後、ペテロが立ち上がって言った。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。…それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」
                         使徒の働き15章7節~11節

今日の箇所は、初代教会での物語ですが、初代教会だからといって、いつも平穏で和やかとは限りませんでした。この時代、ユダヤ人だけではなく、異邦人たちも続々と聖霊の恵みを受け、イエスによって病が癒され救われていました。ペテロも、異邦人であったコルネリオとの出会いの中で、神は異邦人でも救ってくださることを体験したのです。そして、異邦人たちが、初代教会の信徒として加わり始めました。しかし、初代教会の中には、古い体制を維持する保守派のユダヤ人も多く、ユダヤ教の律法を守らないといけないと思う人たちがいました。律法をきちんと守らなければ、神によって救われたことにはならないと律法のくびきを押し付ける人もいたのです。その人たちとペテロやパウロ、使徒たちとの間で会議が開かれ、激しい論争が起きたのです。

1.人種や民族の壁をも越える神の御業

確かに神は、初めにユダヤ人の中で神の御業を起こし始めてくださいました。しかし、神の御業はユダヤ人という1つの民族に留まらず、今や全世界のあらゆる民族、人種に対して述べ伝えられています。旧約の時代では、異邦人は神の恵みから隔絶されている人たちでした。しかし9節には、どんな差別も神にはないとはっきり書かれています。神の恵みは、どんな人にも開かれているのです。

2.心・魂・霊にまで及ぶ神の御業

神は、「…彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです」(9節)とあるように心に聖霊を送ってくださいます。私たちが求める信仰は単なる形の宗教ではありません。儀式やお祭り、また何人(なにじん)だからこの宗教といった決めつけもありません。神の御業は、私たちの心・魂・霊にまで及ぶのです。私たちが、イエス・キリストの御名によって恵みを求めるとき、私たちの文化の違いなど関係ないのです。インドでは、ヒンズー教から他の宗教への改宗を禁ずる法律があります。しかし、神によって与えられたこの命には、インド人だからヒンズー教という決まり事はないのです。心・魂・霊が解放される本当の救いは、目に見える民族、文化を越える神の御業なのです。インド伝道の中でも、祟りや呪いや迷信から、神の御業によって解放され、福音がヒンズー教徒であるインド人にも伝えられました。

3.誰であっても神の御業がある

インドの地における神の御業による癒しは単なるパフォーマンスではありません。御業が起きたからすごいのではなく、11節に「私たちが主イエスの恵みによって救われたこと…」とあるとおり、重要なのは、救い主イエス様しか与えることのできない恵みによって、誰であっても救われることです。差別をしている場合ではないとペテロを通して神様が語られた、全ての人たちに開放されたイエスの御業があります。私たちの魂にまで働く聖霊の力があります。私たちもイエス・キリストの御名によって救われています。神の御業は私たちのものです。あなたの祈りを通して、インドで素晴らしい御業が起きました。次は日本です。あなたにも、私たちにも、誰にでも神の御業は起きるのです。