信仰における“一事が万事”

…ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。エサウはヤコブに言った。「…その赤いのを…私に食べさせてくれ。…」…するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」と言った。…こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。…ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。…その人は言った。「わたしを去らせよ。…」…ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」…    創世記25章27節~34節&32章22節~30節

双子の兄弟エサウとヤコブの人生は、対照的でした。神の恵みを求めることにおいて、エサウはどこか淡白で、ヤコブは誰よりもこだわっていました。古代、イスラエルでは、すべての財産は長男に譲られました。父の全財産が兄エサウのものになると知った時、ヤコブは、どうしてもその祝福をもらいたいと思い続けました

1.信仰生活においても、一事が万事

エサウが一日猟に出かけ、疲れ果てて天幕に帰って来た時、弟のヤコブがレンズ豆の煮物を作っていました。お腹が空いていたエサウは、「その赤い物を、食べさせてくれ。」と懇願します。その時、ずる賢いヤコブは「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」と言います。すると、エサウはヤコブに長子の権利を売ると誓ったのです。
後になって、父イサクが臨終を迎え、エサウに全財産を委ねる祈りをする前に、エサウは父から、「獲物をしとめて、料理を作ってくれ。」と頼まれ狩りに出かけます。その間、母リベカとヤコブが策略をめぐらし、ヤコブが毛深い兄を真似て子やぎの毛皮を手と首にかぶせ、目が見えず耳が遠い父を騙し祝福の祈りを掠め奪います。そうとは知らずに戻ってきたエサウは、「お前は誰だ。いま祈ったはずではないか。」と父に驚かれ、大パニックに陥ります。
人の心を見抜かれる神は、エサウが若い時から長子の権利を感謝していないことを知っておられました。心の隙があったエサウは、神の恵みから滑り落ちたのです。日常の小さな言動にも、その人の生き様全てが表れます。エサウは、豆の煮物と交換してしまうほど長子の権利を軽んじました。神は、私たちの普段の信じ方を見ていらっしゃいますから、小さなことにも信仰を込めたいのです。

2.祝福へのこだわりを持つ

ヤコブは、エサウを騙しました。今の時代なら、法律で罰せられるのはヤコブの方でしょう。罪の報いは刈り取らなければいけません。「兄と出会えば、殺されるのではないか。」とヤコブは不安におののいて長い間暮らさなければなりませんでした。
兄との再会を目前にして、不安に駆られるヤコブの前に神の人が現われ、ヤコブと格闘しました。そこで見逃してはならないヤコブの告白があります。「私は、あなたを絶対去らせません。私を祝福して下さるまでは。」エサウが、「長子の権利など、今の私に何になろう。」と言い放った言葉とは、何という違いでしょう。神の恵みに対する執念のような必死の思いが溢れています。人間的に見れば、ずるいのはヤコブでしょう。しかし、ローマ人への手紙に、「わたし(神)はヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」とあります。それは、神の恵みを徹底的に求め続ける人の心が、恵みを本気で求めない冷めた心に優る証拠です。
あなたの心の中にも、エサウとヤコブがいるはずです。冷めた心が広がる時代に、神の恵みを求めるこだわりは大切です。癒しの恵みを求める時も、「主よ。あなたの臨在を去らせません。私を癒して下さらなければ。」とヤコブの心で祈ってほしいのです。