喜んで仕えるPracticaの一年
…イエスは…言われた。「…異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、…偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。… マルコの福音書10章42節~45節
今日の箇所の直前に、イエスのところにヤコブとヨハネが来て、「あなたが栄光の神の御座に着かれる時、私たちを右大臣・左大臣にして下さい。」と願い出た出来事がありました。他の10人の弟子がそれを聞き、「抜けがけだ。」と大騒ぎを始めました。弟子たちは、ふだん特別純粋なことを考えていたわけではなく、誰が一番偉いのか、内心、競い合っていたのです。その時イエスは、「神を知らない異邦人は、人の上に立ちたがるが、真のリーダーになりたい者は、皆に仕える者になりなさい。」と、この世の常識とは全く逆のことを語られました。そして、「わたしがこの世に来たのも、人々の罪の贖いのために命を与え、仕えるためです。」とまで語って下さいました。
1.信仰者の命の本質は、仕えることにある
ヨハネの福音書13章に、イエスが12弟子の足を洗われた記事があります。それは奴隷の仕事でした。土で汚れた全員の足を洗い終えられた後、イエスは、「主であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたもそうしなさい。」と言われました。イエスのとった行動は、半日後、ご自身が罪人の汚い罪を背負い十字架にかかられる行為を意味していました。イエスはまた、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」と語られるのですが、それは単に心で愛し合うだけではなく、具体的な行動として仕え合うことを意味していました。人に仕え命を捧げることが、キリストの命の本質ですから、その弟子であり、信仰者である私たちの命の本質も、愛し仕えることにあるのです。
2.精一杯の奉仕に、主は報いて下さる
マルコの福音書14章に、ひとりの女性がイエスに高価な香油を注いだ物語があります。彼女は、清く信仰深い特別な女性ではなく、むしろ罪深い女性でした。人々は彼女の行為を、「なんという無駄なことを。」と批判します。しかしイエスは、「この人は、自分にできることをしたのです。」と受け止めて下さいました。そして、イエスの埋葬の準備をしてくれたのだと、彼女本人も知らない意義まで認められたのです。たとえ何もない無名な者であっても、義務だからするのではなく、真心をもって進んで仕える者にイエスは報いを与えて下さり、本人も予想だにしない大きな祝福まで与えて下さいます。
3.仕えることにより、もたらされる恵み
使徒の働き9章にタビタという弟子のよみがえりの物語があります。彼女は病気で死んでしまい、ペテロが遺体の置かれた建物の屋上の間に行ってみると、貧しいやもめたちがタビタにあつらえてもらった衣服を次々とペテロに見せ、泣きながら彼女がどれほど優しくしてくれたかを伝えてきました。そして、使徒ペテロの祈りが奇跡を起こし、彼女はよみがえります。仕える信仰が高まってくる中で、私たちを癒す命さえ与えられるのです。タビタにとっては、なんという大きな恵みだったでしょう。本気で主に仕えた者を、主は決してお忘れになっていません。私たちが喜んで神と人に仕えていると、その恵みは大きな祝福として返していただけることを喜びたいのです。