礼拝で神が喜ばれること

…イエスは…言われた。「人の子は、安息日の主です。」別の安息日に、イエスは会堂にはいって教えておられた。…イエスは…手のなえた人に、「立って、真ん中に出なさい。」と言われた。その人は、…そこに立った。イエスは人々に言われた。「…安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか…。」…その人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。そのとおりにすると、彼の手は元どおりになった。                            ルカの福音書6章1節~11節

ユダヤ人が神を礼拝する安息日に、イエスの弟子たちが畑に入って麦の穂を摘み、手でもんで食べ始めました。パリサイ人と律法学者は、労働してはいけない安息日に律法違反の行為をしたと責めましたが、イエスは、律法は、神が人を裁くためではなく神の御旨を伝えるためにあり、私たちが弱っている時に神は愛を注いで下さる方だと答えられました。
また、別の安息日に、会堂でイエスの周りに多くの人が集まり、そこに右手のなえた人がいました。パリサイ人と律法学者は、イエスを訴える口実を得るため、イエスがその人を癒すかどうか見ていました。なぜなら、安息日に医者の労働に当たる行為をすれば、律法違反になるからです。イエスは、彼らの考えをよく知っておられましたが、その人を癒されたのです。この聖日、私たちの思い込みではなく、神からの祝福をいただきましょう。

1.礼拝で、神の喜ぶ善を行なう

イエスは、律法主義者の魂胆を見抜き、その人をみなの真ん中に立たせ、「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。命を救うことなのか、それとも失うことなのか。」と人々に問いかけられました。当たり前のことですが、私たちは、命を救うことや善を行ないたいのです。それは、神の喜ばれることだからです。私たちにとって、安息日とは日曜日、クリスチャンたちが週の最初の日に神を礼拝するため休み始めた日です。礼拝こそ、神の御旨にかなう善と人々の命に対する救いが実現される場なのです。

2.礼拝で、神の喜ぶ癒しをいただく

イエスは、「右手を伸ばしなさい。」と彼に命じられました。彼は言われたとおり、まったく動かないまま抱え込んでいた手を伸ばした瞬間、彼の手に神の癒しの力が注がれ、なえていた手が完全に癒されたのでした。
神が喜ばれる善の中で最も明確なのは、癒しの御業です。あなたの恵みのリストの中で、神によってあなたが癒されることを決して後回しにしないで下さい。わずか三年間の公生涯の中で、イエスがなされた一番顕著な御業は、癒しの御業です。私たちは、選りすぐりの善の御業である癒しを、感謝をもっていただきたいのです。

3.癒しの御業の主催者イエス・キリスト

イエスの行動は、律法違反だと屁理屈を言うパリサイ人や律法学者の考えとはまったく違っていました。なぜでしょうか。イエスは、「人の子は、安息日の主です。」と言われました。人の子とは、イエスご自身のことです。安息日で礼拝されるべきお方は、まことの神とその現われである御子イエスご自身なのです。ですから、安息日の律法の取り決めにイエスが縛られる必要はありません。安息日の主であるイエスの御旨が、律法の規定を乗り越えて行なわれても何もおかしくないのです。あなたが癒されることを、イエスご自身が望んでおられます。イエスの時代から二千年の月日が流れていますが、この礼拝で、イエスの癒しの力をいただきましょう。