とりなしのために神に向き合う信仰

主アブラハムは近づいて申し上げた。「…もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。…」主は答えられた。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」…彼はまた言った。「…もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」…                   創世記18章23節~33節

神は、アブラハムに一年以内に子どもが生まれるという約束を伝えに来られました。しかし神は、私たちを真剣に愛し恵んで下さると同時に、正義を行なわれる厳しさを持った方なのです。
人の悪が満ち溢れているソドムとゴモラの町々に神の裁きが下ろうとする時、失敗も多かったアブラハムでしたが、彼が信仰の父と呼ばれるようになった信仰の片りんが見える物語が展開します。アブラハムは神から豊かに恵みを受けるだけではなく、周囲の人々に豊かに恵みを与えることのできた人でした。ソドムとゴモラに、旅の途中でたもとを分けた甥のロトの一族がいることを知り、神に向かって信仰を働かせました。その信仰を学び、私たちの霊的な糧としましょう。

1.滅びゆく魂のために、愛を注ぐ

「ソドムとゴモラに、もし50人正しい者がいても、一緒に滅ぼされるのですか。」アブラハムに特別な利益があるわけでもなく、そこにロトの家族がいるだけでした。でも、神の裁きの計画を察知した時、彼らを救うためにすぐに神に直談判したのです。
イエスの愛によって救われた私たちの心の中に、神の愛と命が育ち始めていることを感謝しましょう。永遠の死や地獄での苦しみの中で人生を終わろうとしている人々が救われるように、救いの道を開いて下さる主イエスをお伝えするため、様々なお誘いをすることを躊躇しないようにしたいのです。

2.本気で神に向き合うねばり強さを持つ

「神様。45人ではだめですか。40人では。30人では。20人では。じゃあ、10人いれば。」アブラハムは、神の怒りに対して立ち向かう恐ろしさを重々承知しながら、ねばり強く語りかけていきました。その熱心さは神の御心にかなうものでした。
人を騙したり押しのけたりと問題の多かったヤコブも、神の恵みをいただくためにはねばり強い人でした。イエスご自身も、夜昼かまわず願いに来るやもめのうっとうしさに参り、彼女を守る裁判をした不正な裁判官のたとえを語られました。
信仰が認められる要素とは、外見や評判ではなく、神にどれだけ本気で向き合うことができるかどうかなのです。特に、人々に恵みを伝えることについては、そうありたいのです。

3.誰かのために立つ信仰を持つ

アブラハムは、誰かのために立つことを厭いませんでした。
自分の都合のためだけに生きるのが幸せと思い込んでいる今の世です。でも、クリスチャンには、誰かのとりなし手となる生き様が与えられていることを心から感謝したいのです。
70億を超える世界の人口の中で、飢饉で食べ物もない不幸な人も増えています。私たちには、一人で何億人もの人を変えることはできないかもしれませんが、一人の人の人生を変えることはできます。私たちの周りの人々も、イエスの福音を伝えるならば、人生が劇的に変えられます。それだけの価値あるものが私たちには与えられています。誰かのために立つ信仰です。人々の救いや癒しのために、イエスの恵みを伝えていく者となりましょう。