尊ぶべきいやし主

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。
                 ペテロの手紙第一2章22節~25節

延岡商業高校のホームページに掲載された礼儀指導の1枚の写真から、体罰だ、時代錯誤だと多くの批判が出ています。時代錯誤でしょうか? 私は、最近の世の中の風潮が、自分の自由さ、わがままを主張し、横柄な態度になっていると感じています。人間社会は文化を積み重ね、人間関係の中でも礼儀や作法を身に付け、よいものを作ってきました。私は礼儀作法は価値があり、大事だと思っています。礼儀作法を重んじる姿勢は、神様を礼拝する姿勢にも通じます。神様を礼拝するというのは、自分に都合のよい、御利益のために信じているのではなく、神様との本当の繋がり、礼儀作法を遙かに超えた、神を崇め尊ぶ、もっともっと深い謙(へりくだ)りが必要だと、心から思わされます。この観点から、今日のいやしの礼拝で恵みをいただくために、いやし主である救い主キリストが、どんな御方か学んでまいりましょう。

1.主キリストは、全き正しい御方

イエスは、私たちを友と呼んでくださいました。私たちも、素直に主よと呼びかけています。しかしイエスは、私たち人間のようにいい加減な御方ではありません。その口の言葉にも、行動にも、魂の中にも、汚れ、罪の染みが一切ない、全き聖き御方なのです。この聖い御方が、主に仕える者、奴隷の姿にまでなってくださいました。父なる神の御旨にご自身を委ね、神のみこころに従って生き、死ぬことを選ばれ、私たちに模範を残されたのです。救い主イエス・キリストは、全き御方であり神の聖さを常に持っておられる御方であるという、このキリストの聖さから目を離してはいけません。感謝し、喜ぶと同時に、正しい恐れも忘れてはいけません。

2.罪を背負い、身代わりに死なれた御方

あなたの人生の中で、親や祖父母が、どれほど愛してくれたかを思い出すことができるでしょう。しかし、キリストは、それ以上にこの私たちを愛し、私たちの罪を身代わりに背負われて、十字架にかかってくださいました。人間が軽々しく近づくことができないほど、全き聖き御方が、私たちの命の身代わりとなって死んでくださったのです。ここに、究極の愛、犠牲の愛、神の愛が表されています。

3.救いといやしを成就された御方

キリストの打ち傷のゆえに、私たちの魂が救われ、いやされるのです。「むなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです」(Ⅰペテ1:18-19)とあるように、イエスは、尊く汚れない、完全な神の御子であるキリスト(救い主)以外に誰も成し遂げることのできない、完全な救いといやしの御業を成就された御方です。
今一度あなたの信仰が、イエスを軽く考えていなかったか思い起こしてください。毎回の礼拝で、イエス様とお会いできているか、自分のわがままばかり祈っていないか。父がよく言っていました、「同じ献金でも、きれいなお札で、感謝して捧げているか」と。奉仕や信仰は、イエスに対するものです。聖書の証言する通り、イエスは、全き聖なる御方、尊ぶべき御方、心から誉め称えるべき御方です。信仰の襟を正し、心から感謝し、謙り、主の御前に恐れおののき敬意を持ってお仕えしてまいりましょう。