悲しみと慰めと幸せ

悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
                      マタイの福音書 5章4節

多くの人々の心の中にある、神様に関する疑問の一つとして、愛である神様が存在するというなら、なぜ、この世界に、こんなにも多くの悲しみや苦しみが存在するのか、というものがあります。クリスチャンであっても、時に、そんなふうに思ってしまうことがあるかもしれません。
私たち人間の小さな頭では、この果てしない宇宙のすべてを造られ、宇宙よりも大きな神様のすべてを知ることはできません。しかし、今日のこのイエス様の御言葉から見えてくるものがあります。

1.悲しみは幸せに変わる

それは、悲しみは悲しみで終わらない、苦しみは苦しみで終わらない、「幸いなるかな」、「なんて幸いなんだ」という幸せに変わる、ということです。この主の御言葉を信じるなら、世界は違って見えてきます。今ある「悲しみ苦しみ」も、「幸せ」に見えてきます。それは、やがて幸せに変わるからです。今だけ悲しみ苦しみのように見えているだけの「幸せ」なんだと見えてきます。

2.慰められるから

しかし、どうして、悲しみが、幸せに変わるのでしょう。それは、「慰められるから」です。「慰める」というギリシヤ語には、「励ます」、また「懇願する」という意味があります。慰めることと、懇願することは、同じなのです。私たちが心から神様にすがりついて願うなら、必ず、慰められる、幸せになれるのです。
Ⅱコリント1:4に「神はどのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます」とあります。そして、パウロ自身も、死を覚悟するような苦しみの中で慰められ、救い出された実体験を証ししています(Ⅱコリント1:8-10参照)。苦しみ悲しみがあったから、必死に願った、神様にすがりついた。そして、助かった、救われた、苦しみ悲しみを乗り越えられた。だからもう、悲しみ苦しみを恐れない。そこに慰めを見るからです。救いを、望みを、神様を見るからです。

3.幸せとは?

幸せとは、何でしょう。どこにあるのでしょう。最も幸せな所とは、どこでしょう。それは、天国です。神様を知らない人でも、幸せを感じると、「まるで天国みたい」と言うのです。そして、天国とは、どんな所でしょう。それは、神様が、イエス様がおられる所です。どんな悲しみ苦しみも、そこに主がおられると知るなら、慰められます。幸せに変わります。主はどんな悲しみの涙の中にも共におられます。そして、私たちのすべての涙を、やがてすっかりぬぐい取ってくださるのです(黙示録21:3-4参照)。悲しみが慰められるのは、慰めてくださる方と出会うからです。神様と出会うからです。だから、幸せなのです。神様といっしょにいるなら、天国のように幸せなのです。
私たちは悲しみ苦しみの中で、その悲しみと苦しみを、すべての罪を十字架で身代わりに背負われた主の愛を見るのです。十字架という苦しみを、私たちの赦しと救いという幸せに変えられた主を見るのです。その主が語っておられるのです、保証してくださっているのです。「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです」と。
だから、信じて祈りましょう、悲しみ苦しみに満ちたこの世界が慰められ、救われ、幸せになるように。