救いの衣、義の衣

わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。     イザヤ書61章10節

現在の日本のキリスト教会では、まだリバイバルが起きているとは言えません。しかし私は、日本で大きな宣教の業、リバイバルが起こされると確信しています。ですから皆さんも喜んで主の前に仕えていただきたいと思います。

1.神の用意した救いの衣を受け入れる

イザヤ61:10には、神は私たちに「救いの衣、正義の外套をまとわせ」と記されています。マタイ22章でイエスは、「王の結婚」を譬(たと)えとして「天の御国」がどのようなものかを語られました。「最初に招かれたにもかかわらず来なかった人」とは「イスラエルの人々」のことで、「王子」はイエス、「大通りの人々」は「異邦人」をさしています。王は大通りにいる良い人も悪い人も全ての人を招き、準備のないその人たちに王は礼服を準備したと考えられます。しかし、礼服を拒絶した人は、つまみ出されたというのです。神が私たちのために「救いの衣」を準備して招いてくださり、その衣を受け入れた者が御国に入ることができるということは「神の国の法則」に合致しています。私たちが良いことをしたから、お金を払ったから、救いの衣を受ける資格があるのではないのです。神が準備したものを受け取った者だけが、資格を持つのです。

2.救いを受け入れた者の性質を理解する

イエスは十字架に架けられる前に、弟子たちの足を洗われ、「水浴した者は足以外洗う必要はない」と語られました。私たちは、100%義であるという「義の衣」を頂いていますが、この世界に生きる限りは足が汚れます。礼拝に集う皆様は神に愛される存在ですが、この世で私たちは傷を負ったり罪を犯してしまったりします。だから私たちは、罪を告白して清められなければならない、「足を洗う必要がある」のです。私は罪を犯したので礼拝に来る資格がない者だ、という間違った考えを持つと、どんどん神から遠ざかってしまいます。そうではない、私たちはこの世にあっては罪を犯すけれども、それを告白することで清められるという性質を持っているのです。神から頂いた義の衣を着ているあなたは、神に愛されているのだという事を今一度確認しましょう!

3.旧約から変わらない神の御性質

旧約において、神はアダムとエバに裸を覆うための皮の衣を着せてくださいました。この衣が、義の衣の原型だと考えられます。皮の衣を得るためには、獣が殺され、血が流れる必要があります。この獣が、おそらく小羊であったのではないでしょうか。もし神がアダムとエバに血を流して罪の赦しを与えたとするなら、もう既に恵みの福音が示されていたのです。創世記4章で、カインとアベルの話があります。なぜ彼らは、同時に捧げ物をしたのでしょうか。おそらく彼らは、神との交わりがあったアダムとエバによって「血を流すことなしに罪の赦しはない」という、血が流された皮の衣、すなわち義の衣の意味を教わっていたのではないでしょうか。そして、正しい礼拝のための捧げ物とは何かということも息子たちに伝えていたのでしょう。永遠の昔から今日に至るまで、神は変わっておられません。そして、これからも変わりません。一方的な恵みによって私たちを救い、導いてくださるのです。この恵みに感謝します。