いやしの恵みを制限しない

…イエスはナインという町に行かれた。…やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。…主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい。」と言われた。そして近寄って棺に手をかけられると、…「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」と言われた。すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。人々は恐れを抱き、「大預言者が私たちのうちに現われた。」とか、「神がその民を顧みてくださった。」などと言って、神をあがめた。…
                   ルカの福音書7章11節~17節

先週はイースターの聖日でした。この癒しの礼拝でも、十字架と復活により、罪を清められ死を打ち破り甦られたイエス・キリストからのよき恵みが一番良い形で与えられることを信じ期待しましょう。
主のいやしを語る時、単に病気が治るとか痛みがなくなるということだけで終わりません。イエスが、死そのものを取り扱われ、死人さえ生き返り、癒さるという記事が、特に福音書の中にいくつも書かれていることを忘れてはいけません。小さく萎縮した心ではなく、聖書が伝えているとおりの豊かさ、神の恵みの大きさを意識したいと思います。
イエスの一行がナインという町に行った時、葬式の行列に出会いました。ご主人に先立たれたのか、やもめである母親の唯一の望み、かけがえのないひとり息子が死んだ葬儀でした。イエスは母親を見てかわいそうに思い「泣かなくてよい」と言われ、近寄って棺桶に手をかけ、「起きなさい」と言われたのです。すると、死んでいた青年が起き上がって、ものを言い始めたので、人々は恐れおののいたという記事です。ここから、3つのことを覚えましょう。

1.神にはどんなことでもできる

主の癒しの恵みは死の領域まで拡大し、人にはできない、絶望だという所にまで主は希望をもたらされたのです。人間的な常識で、自分で枠を決めるのではなく、主は、死んでいる者さえ生き返らせると信じ、私たちの信仰の器を精一杯拡大したいのです。今の知識が全てではなく、神の中にある知識や力は豊かで力強いものであることを認めましょう。この病は治らないと決めつけず、神には何でもできるという信仰を拡大しましょう。

2.主の愛にとって小さすぎる者はいない

偉大な主、イエス・キリストが、とことん愛を持って接して下さることを感謝したいのです。たったひとりの息子を失い涙に暮れている彼女を主はかわいそうに思い、普通の人なら忌み嫌う棺桶にまで手を触れました。私たちの目にどんなに価値のない者のように見えても、主の愛にとって小さすぎる者はありません。弱さを抱える私たちのことをかわいそうに思い、愛し、涙さえ流して下さるお方です。
あなたが祈る時、主の愛は、あなたに向けられています。たとえあなたが誰からも忘れ去られた存在であっても、主はあなたを愛し、愛と力を注いで下さることを感謝しましょう。

3.神が私たちの所に現れて下さった

その後、皆は恐怖を抱いて、大預言者が現れた、神が私たちを顧みて下さったと言って神をあがめました。その人々には、イエスが何者かはわかっていませんでした。十分知りもしないで語った言葉でしたが、実は、正しかったのです。確かに、神が私たちを顧み、弱い私たちを憐れんで下さったのです。イエスが、私たちの罪を背負って十字架で死に、死の力を打ち破って甦って下さったのは、神が私たちと共におられ、顧みて下さることの現れです。
癒しを求める時、イエスの命は、私たちの体を本当に生かし、救いと命を与えて下さるのです。確かに主なる神が私たちの所に現れて下さったのです。この、主の御業を今ここで、私たちも体験しようではありませんか。