火を投げ込むために

ヨハネはみなに答えて言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。…(主は言われた。…)「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。」       ルカの福音書 3章16節、12章49~50節

全ての栄光をかなぐり捨てて、神が人となられたのは、主イエスがこの世界に来られたのは、何のためでしょう。それは、「地に火を投げ込むため」です。

1.霊的祭壇の火

「その火が燃えていたらと、どんなに願っていることか」と主が言われた「火」とは、どんな火でしょう。レビ記6章に、ずっと燃やし続け、消してはならない、と命じられている火があります。それは、祭壇の火です。献身や罪のゆるしのために、いけにえをささげ、それを焼き尽くす祭壇の火です。それは元々主から出た火でした。主イエスは、全ての人の罪を身代わりに焼き尽くすために、真のいけにえ、なだめの供え物となって、十字架でいのちをささげ、罪のゆるしときよめの火をこの地に投げ込むために来られたのです。その火が、私たちの内に、教会に、この世界に燃えていますように! 握りしめている罪を手放してささげ、全て焼き尽くし、きよめられましょう!

2.聖霊の火、救いの火

主が十字架で死なれ、三日目によみがえられた後、主が語られていたとおり、この世界に火が投げ込まれました。聖霊の火です。使徒の働き2章、ペンテコステの祭りの日に、主の弟子たちの上に聖霊の火がくだり、心燃やされて神の言葉が語られたときに、人々は自らの罪を示され悔い改めて、1日で3千人が救われ、その救いの火、リバイバルの炎は、エルサレム、ユダヤ、サマリヤ、地の果てまで燃え広がって、2千年たっても消えることなく、私たちも救われたのです。その火が私たちの内にさらに燃え上がり、燃え広がりますように! 私たちの家族に、周りの人々に! 全ての罪も不信仰も焼き尽くされて、この国に、全世界に救いの火が燃え広がりますように。

3.愛の火

神の言葉に逆らい続けるこの世界に、神の「ことば」そのものである主が来られたのは、私たち、全ての人の内に、神の御言葉の火を燃やすためです。また、罪と悪魔に負けて支配されている全ての人を、神のもとに取り戻すために、主は来られ、勝利の火をこの世界に投げ込まれたのです。
そして、もう一つ、主が来られたのは、愛の火を投げ込むためです。この世界がまだ知らなかった愛です。大水も消すことのできない、すさまじい愛の炎です。人々が主を憎み十字架にはりつけ殺そうとしても消せなかった愛の火です。主の愛は焼き尽くす火、ねたむほどの愛です。主から離れる者には、「そっちに行くな、わたしに帰れ」と必死で引き戻す、本気の愛です。愛といのちそのものである神から離れて、生きられるはずがないのに、自分で勝手に罪と滅びの中に飛び込んでいく人々を、どうして見捨てられようかと、この世界に飛び込み、私たちの代わりに滅びの火の中に飛び込んでくださった…主の愛、十字架の愛、それは、本気の愛です。その愛の火が、私たちの内にも注がれるとき、私たちも本気の愛で主を愛する、愛さないではおられなくなるのです。主に喜ばれることだけが喜びとなり、もう二度と主を悲しませたくないという愛の中で、全ての罪も不信仰も焼き尽くされていくのです。
主は、この地に火を投げ込むために来られました。その火が今も燃えていますように!