良いものを与えていただける人

聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。…求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。…なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。
                   マタイの福音書7章6節~12節

今日の聖書箇所は「山上の垂訓」と呼ばれるイエスの教えの中心部分にあたります。特に12節は黄金律と言われる所であり、「山上の垂訓」の頂点であると共に、この教えの全てを集約している箇所であると言っても過言ではありません。この聖書箇所から、「良いものを与えていただける人」と題してメッセージをしたいと思います。

1.求める人

神に求める人が神からの良いものに与(あずか)ることができるのです!7~8節にあるように、何かを与えてほしいと思うならば、まず「求める」ことから始めましょう。神から良いものを与えられた経験、良いことをして頂いた実感や記憶がないという方がおられるとするなら、それは 、求めたことがないか、あったとしても、求め方が中途半端だったのではないでしょうか。イエスはヨハネの福音書の中でも「あなたがたはわたしの名で求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けるのです」と言われています。神は私たちに惜しげなく咎めることなく与えて下さるのです。聖書は私たちにその神に願うこと、祈ること、求めることを繰り返し教えているのです。11節には、「天の父が求める者に良いものを下さらないことがありましょう」と記されていますから、神に自分の必要を祈ろうではありませんか! 神に愛されていることを体験させて頂けるよう、賜物を頂けるよう、信仰が深くなるよう、与えられると信じてもっと祈りましょう!

2.与えられる値打ちのわかる人

神は与えがいのある人に与えて下さるお方です。与えがいのある人とはどのような人のことでしょうか? 聖書の時代、カナン人は「犬、豚」と呼ばれ、ひどい扱いを受けていました。それにもかかわらず、
カナン人の女が娘の癒しを求めて、「小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と大胆にイエスに求めたのです。それはイエスが驚くほどのすばらしい信仰でした。彼女は、天からの「パンくず」の恵みがどれほど大きいかを知っていたのです! この「犬、豚」扱いされている人を自分のこととして捉えたいと思います。この私に、与えられる価値があるだろうか? たとえ私たちが「犬や豚」のような存在であったとしても、与えられる値打ちと有り難みのわかる人になりたいのです。もし私たちがそうなるなら、神は私たちに良いものを与えて下さいます。

3.与えることのできる人

神は、与えることのできる人に与えて下さるのです。「自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」と記されています。見返りを期待するのではなく、私たちはただ与えることのできる人になりたいと思います。神は与える人を愛して下さり、喜んで与える人に与えて下さるのです。与えることのできる人が、神から何かを与えられた時、それは決して無駄にはなりません。与えられたものがもっと意味や価値のあるものになるのです。
与えることは、必ず何かの犠牲が伴います。与える側になって、初めてそれがわかるのです。それがわかれば、神が与えて下さった、ひとり子イエスの犠牲、福音の価値がわかるようになるのです。「与えられる人」になれるよう求めて祈り、神の恵みに与(あずか)り、さらに信仰の歩みをしてまいりましょう。