ゲツセマネの祈り

それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」…イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」       マタイの福音書 26章39節、42節

エルサレムの神殿の東、ケデロンの谷を渡り、オリーブ山のふもとにある、「油しぼり」という意味のゲツセマネの園。十字架の前夜、弟子たちとの最後の晩餐を終えて、主イエスはそこで祈られました。それは、「ゲツセマネの祈り」と呼ばれています。

1.主と同じ言葉で祈る

私たちが生きる目標は、神に似る者になることです。人はそのように造られたからです(創世記1章)。そして、祈りの目標も、神である主に似ること、主が祈られたように祈ることです。それにはまず、主が祈られた同じ言葉で祈ってみることです。
このゲツセマネの主の祈りをそのまま祈ってみてください。取り去ってほしい苦い杯のような事柄を、自分の中でかかえこまなくてよいのです。素直に「この杯を私から過ぎ去らせ、取りのけてください」と祈っていいんです。そのとき、ものすごく解放されます。主と本音の部分でつながって、もう私たちは孤独ではなくなります。普通なら、できないこと、したくないことはしない、それで終わり、そこが限界です。しかし、正直に自分の本音も弱音も打ち明けながら、「私の願うようにではなく、あなたの御心のようになさってください」と祈るとき、自分の考えや力の枠を超えて、神がよいと思われる最善の答えを、神の全能の力で行ってくださると、信じ、委ねることができます。自分の枠を超えた可能性が開かれます。心に光が射し込んできます。そして、その苦い杯を取りのけることが主の御心なら、必ず状況は変えられます。主の御心でなく、苦い杯がそのまま取りのけられないとしても、受けとめ方が全く変わってきます。外から、誰かから押し付けられたものではなく、神から与えられたものとして、苦い杯の意味が、味わいが変わります。ぜひ主と同じ言葉で祈ってください。

2.主と同じ心で祈る

祈りにおいて、主に似る者となるために、主と同じ言葉で祈るだけでなく、祈りに込められた主の御心を知って、主と同じ心で祈る者に変えられましょう。
私は以前、このゲツセマネの祈りがわかりませんでした。私たちが受けるはずの罪の罰を身代わりに受けられる十字架の苦しみ、確かにそれは苦い杯のようなものだとしても、主はそのためにこの世界に来られたはずなのに、それを嫌がり、取りのけてほしいなんて…、主は私たちのための十字架を嫌々受けられたのだろうか…、私は理解できませんでした。しかし、ある時、祈りの中で教えられました、私が受けるはずの罪の罰という苦い杯は、主でさえも受けたくないと思われるほどのものだったと。それほど大きな罪、苦い杯を受けてくださったのは、誰のためなのか、それは私のため、私たちのためです。この祈りに込められた主の御心は、愛です。とてつもなく大きな愛なのです。そして、この祈りがあったから、十字架があり、復活があり、愛と救いの御心がこの地に現わされ、アダムとエバから始まった罪の歴史はひっくり返り、この世界は変わったのです。

「主よ。この杯を取りのけてください。しかし、私の願うようにではなく、あなたの御心のようになさってください」。それは、世界を変えた祈り。そして、私たちも変えられました。これからも、この世界は変わり続け、救われ続けます。この祈りが、祈り続けられるからです。私たちが、教会が祈り続けるからです。