主キリストの教会に伴ういやし

あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。…ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。
                                 ヤコブの手紙5章13節~16節

3月になり、高校受験や大学受験の時期ですが、もうすでにお祈りが答えられて、証しもたくさん届いていることを心から感謝します。若い兄弟姉妹たちの新たな可能性の道が開かれているわけですが、たとえあなたが何歳であろうと、私たちは神の子どもです。神の恵みを注がれて当然の子どもたち一人ひとりなのですから、この朝も新鮮な信仰を働かせて神の恵みを頂いていきましょう。
聖書というと小難しい理屈が書いてあるイメージがありますが、ヤコブが書いたこの箇所には、教会がどんな場所であるのかが分かりやすく明快に書かれています。新約聖書はそれぞれ明らかに著者が違います。でも、違う著者たちがそれぞれの教会を描写している中に「いやし」という言葉が当たり前のように出てくることに気付いてほしいと思います。今日、いやしを祈るにあたって3つのことを押さえていきましょう。

1.いやしの恵みは常に教会とともにある

マルコの福音書16:15-18、第1コリント12:7-9、第3ヨハネ2にしても、それぞれ違う教会の違う人たちが共通して「いやし」ということを書いています。異なった角度から違う人々が、教会生活の中にはいやしがあると語っているのです。今日、私たちはキリストのからだである教会に集っています。それならば、私たちはこの聖書の箇所が語るように、私たちのこの教会にも当たり前のように「いやし」があることを信じようではありませんか。

2.信仰は理屈ではなく経験すべきこと

「信仰を持つ」と言うと、日本人の感覚では難行、苦行、厳しい修行を積み重ねなければならないと思ってしまいます。あるいは、猛勉強をして悟りを開かなければならないと思っている人がいます。ほかの宗教はそうかもしれませんが、聖書が語る信仰はそんな理屈や私たちの修行とは関係ありません。聖書は、神の働き、神の恵みを経験し、受け入れればいいと語っています。今日開いた聖書の箇所にも、「祈りなさい、賛美しなさい、牧師たちと一緒に祈ってもらいなさい」とあっさりと書かれています。私たちは恵みを理屈で理解するのではなく、素直に受け止める者となりましょう。

3.あなたも当事者になりましょう

新約聖書の各書物は、理論の解説や難しい論文として限られた人に読まれるために書かれたものではありません。元々は、一人でも多くの人に読んでもらうために書かれたものです。ということは、読み手である一人ひとりが皆、当事者であるということです。2000年の時代を超えて今日、この聖書を読んだあなたも当事者です。ヤコブがこの手紙を通して語りかけているのは、あなたです。あなた自身がこの手紙の受け取り手として、この語りかけに対する当事者として、このいやしの祈りを一緒に祈ってほしいと思います。主は今も生きて働いてくださっています。この恵みを自分が当の本人として受け止めたいのです。この教会にもおられるキリストの恵みを受け止めましょう。