主の十字架と復活がもたらす恵み!

…もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。…   ローマ人への手紙6章3節~11節

今晩は今年最初の洗礼式が行われます。洗礼式は形だけの儀式ではなく、本当に心からイエスを自分の救い主として受け入れて、自分の罪を悔い改め、イエスが与えて下さる新しい命によって生きる者へと生まれ変わらせていただくための式です。兄弟姉妹の中には洗礼を受けて何年、何十年経っている方もいるでしょうが、形だけの形式的な信仰にならないよう、新鮮な信仰を思い出してみましょう。
人間全体の生き方が大きく変化し、私は、バブル崩壊の時に、文化や文明が一度頂点を極め、曲がり角を過ぎたように思います。生活が豊かになり便利になって、私たちの心に幸せや喜びが増えてきたかというと、歪んでねじれて非常に複雑になり、逆に罪深く、悪の力が増しているように感じます。
聖書は遠慮なく私たち人間には罪があると語っています。現代人は「そんな古臭い宗教の教えなんて現代人には合わない!」なんて言う人がいますが、それはとんでもない間違いで、聖書のメッセージは、昔の人以上に現代を生きる私たちにとっても必要なものなのです。今日のこの礼拝で、3つの喜びを確認しましょう。

1.イエスと共にいる喜び

聖書の中心人物であるイエスが成し遂げられた最大の御業は、私たち人類の全ての罪を背負い、身代わりとなって死に、死の力を打ち破ってよみがえってくださることによって、私たちの罪を清めて新しい命を与えることを事実としてくださったことです。この6章3節~6節には、そのことをなぞりながら同時に繰り返し語られているポイントがあります。それは「私たちがイエスと一つになる」ということです。信仰生活の醍醐味はイエスと共にいることなのです。

2.罪の力や死の恐怖から解放された喜び

私たちは、イエスによって自由にされていることを喜びましょう。自分が強くなるために、自己成長や人生哲学のひとつとして聖書やイエスを信じるなんて中途半端な信じ方はしないでください。イエスを信じると霊的に造り変えられるのです。罪を持ったまま、自分の賢さや世の中の流行や人の知恵だけでうまくやろうとする人は、罪の力から解放されず、死の恐怖からも逃れられません。しかし、クリスチャンである私たちはイエスによって罪から解放され、死の恐れから解き放たれているのです。

3.神に向かって生きている喜び

絶対に忘れてはならないのは、私たちは、キリストの命で、神に向かって生きているということです。たとえあなたがこの地上で肉体的な死を迎えたとしても、あなたの魂は神の元で永遠の命をいただくことができます。私たちの罪は、イエスと共に死んで葬られたのです。そしてイエスがよみがえられたように私たちにはキリストによる命があるのです。いつの間にかあなたの命や自由が、世の中の人が持っている罪深い自由で終わっていませんか? 私たちは神に向かって生きることができる命を与えられました。その命は神がおられる天国にまで繋がっている永遠の命です。永遠の命は、決して干からびたり、なくなったりすることはありません。ですから、クリスチャンとして歩んでいることを感謝しましょう。