クリスチャンとしての自覚を持って歩もう

あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。…私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。…互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。            第一テサロニケ人への手紙5章5節~11節

今日の聖餐式の中で、クリスチャンとして心の姿勢、信仰の姿勢を微調整して、内側からピシッと、シャキッとさせていただき、この一ヶ月も神様からの恵みの中に置かれていることを確かにしましょう。
2000年前に書かれた新約聖書は、文学や歴史的資料として見ると大変古い書物です。しかしそこには、現代の私たちと変わらない人の生活、人生が書かれています。人間は何百年、何千年経っても、その本性は変わりません。神の前には小さな存在なのです。私たちの心構えを整えるにあたって、立ち返るべき信仰の姿勢を確認しておきましょう。

1.私たちはクリスチャンであり、信仰者

パウロは言います。「あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。(5節)」クリスチャンとしてのアイデンティティー(自分の存在意義、個性)を与えられていることを思い起こしましょう。私たちクリスチャンは、家族や職場、友だちとのたあいもないおしゃべりの中でも、闇ではなく、神の光に照らされて歩んでいるクリスチャンであることを絶対に忘れないようにしましょう。神に背を向けて影を作り闇の中でいじけている者ではなく、クリスチャンとして、光の神に向かい自分の弱さも隠さず、神によっていやされ強められ力に満たして下さい、と祈る者でありましょう。将来のことが心配でたまらなくなるのは、日本人の特性だそうです。しかし私たちは、信仰と愛を胸当てとし、救いの望みをかぶととして与えられ、光の子とされていることを喜ぼうではありませんか。

2.すでにあるイエスの偉大な救いの土台

クリスチャンとしての生き方を支え保証するために、単なる口約束ではなく、イエス・キリストが、私たちのために罪を背負って身代わりとなり死んで下さったことにより、私たちは神の御恵みと救い、永遠の命を与えられ、「私たちが、目覚めていても、眠っていても(10節)」どんな時も私たちと共にいて下さる主の恵みに与(あずか)る特権を与えられていることに感謝しましょう。「宗教」の中には、「エホバの証人」のように、神の裁きの恐怖によって人々の心を縛り、引き込むものが多くありますが、キリスト教は全く違います。聖餐式では、パンとぶどう酒をいただいて、イエスの御体と血潮をいただきます。他人事でなくイエスが私を愛して下さって、私の罪をきよめるために罪を背負って死んで下さり、永遠の命まで下さいました。クリスチャンとして、ピシッとシャキッと生きるために、すでにイエスの愛による救いの土台があることを感謝しましょう。

3.互いに徳を高め、成長し合う

「ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。(11節)」とあるように、愛することも、夢やビジョンに向かってのチャレンジも、もう一歩踏み込み、奉仕、祈り、献げ物においても、もう一歩成長したいと思います。生身の人間ですから弱さはあります。愚かなところもあります。だからこそ、神によって引き上げられ成長させていただけることに感謝しましょう。
この一ヶ月も、祝福されたクリスチャンとしての心の態度、生きる姿勢を貫いていくならば、神の子どもとしてさらに成長させていただくことができます。共に祝福されていきましょう。