特別な存在である主キリスト

…見ると、その回りに大ぜいの人の群れがおり、また、律法学者たちが弟子たちと論じ合っていた。…「…お弟子たちに、霊を追い出してくださるようにお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。」…父親は言った。「…もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」…汚れた霊をしかって言われた。…するとその霊は、叫び声をあげ、その子を激しくひきつけさせて、出て行った。…               マルコの福音書9章14節~29節

この夏の行事も本当に祝福されました。メンズクラブの海水浴ではちょうど梅雨も明けて、楽しい交わりの時を過ごせました。教会学校や学生会のキャンプでも、教会のキャンプでなければ味わえないような祝福された3日間となりました。全国聖会も恵まれたものとなりましたし、合同記念会礼拝では天に召された方にもちゃんと恵みが続いていることを確認することができて感謝です。
今日開いた箇所で、イエスは悪霊の働きに苦しめられている息子を癒すのですが、この箇所で私たちが癒され、霊的解放をいただくための大切な3つの秘訣が記されています。

1.人には不可能がある

この世の中には、多くの人々の意見があり、一つのことに対していろいろな解決方法があります。しかし、人を信頼するだけでは問題は解決できないことを認めましょう。
この物語で霊的な苦しみを抱えている息子を持つ父親は、イエスの噂を聞いてイエスのもとに来ました。しかし想像してみてください、今ならば新聞やニュースで正確な情報を容易に得られますが、2000年前の当時、人から人へと口伝えでしかニュースが伝わらなかった時代ですから、イエスの噂も本当に僅かなもので、いったいどんな人物か、どのように癒されるのかわからないまま彼はイエスのもとを訪れたのです。そこでは、弟子や律法学者たちが、病気の息子のことを聞いてそれぞれがああだ、こうだと意見を述べ始めます。弟子もイエスの真似事のように祈ったけれども、息子の病気は治らなかったのです。
私たちは生活の中でいろいろな情報を当てにしますが、世の中の様々な知識や解決方法、人の力では、どうしても解決できない問題が確かに存在するのです。人には不可能があるのです。

2.イエスを世の方法と並列しない

イエスは、弟子や律法学者が議論しているのを見て呆れ、息子を連れて来させます。この父親は、医者だけではなく魔術的なものや、霊験あらたかな場所に行き、何が入っているのかわからない薬も試し、いろいろなことをしたでしょう。そして父親は、イエスもその治療法のひとつと考え、「もし、おできになるものなら」と言ったのです。今までと同じく、できなければまた次に行くだけだったでしょう。もしここで、イエスに言われたとおりに、イエスを信じることができなければ、息子は一生癒されなかったのです。イエスを世の解決方法と同等に並べて考えてはなりません。イエスが単にこの世の選択肢と同じものだったなら、今まで同様、不可能で終わったのです。

3.イエスは本物の救い主、癒し主

私たちが今日お祈りする神は、真の救い主であり癒し主です。特別な方にお祈りするのです。20節に「その子がイエスを見ると…ころげ回った」と記されていますが、これは悪霊がイエスを見てパニックになったからです。つまりイエスがおられるところには、霊的な空間があり、そこに触れる者たちは皆、霊的な力を体験するのです。イエスの存在は圧倒的なもので、不可能を可能にする力があるのです。解決はイエスにあり、イエスだけが本物の救い主、癒し主だということを忘れてはなりません。