事実として存在する愛

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。…私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。
                  第一ヨハネの手紙4章9節~12節

8月の最初の日曜日で聖餐式の礼拝です。一年で一番暑い時期ですが、心も体も元気で、躍動感、喜び、感謝にあふれ、豊かな心で過ごしましょう。
日本人にとって8月は、「夏休み」というだけでなく、70数年前の戦争の記憶につながります。モーセの十戒で殺してはならないと教えられているにもかかわらず、いまだに戦争はなくなりません。どんなに人の頭が良くなり、テストの偏差値が上がろうとも、新しい発見・発明がされようとも、人は自分で思っているほど賢くはないのです。愚かなのです。時には叱り、戒めて導いて下さる神の教えがどうしても必要です。また、戦争によって、人の命のはかなさを知ります。一瞬の偶然が生死を分けることさえあります。神に生かされていることそのものが恵みです。へりくだって感謝できる心でありたいと思います。そして、戦争によって、人の命の尊さを学びます。「私の目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)」虫けらのような小さな私でさえ、他の誰にも真似のできない特別な人生のストーリーを、神は与えて下さっています。そんな尊い命だからこそ、自分でその命を損なうようなことをしてはなりません。神が天に召して下さるときまで、しっかりと生き抜かなければなりません。
今日の聖書の箇所でヨハネは、「神は愛です。(4:8,16)」と、現代の私たちも好むような言葉を用いながら神の恵みを語っています。しかし、決して単なるきれいごとではなく、愛を語る時には、ドキリとするような裏の部分、「恨み」、「憎しみ」、「呪い」も語ります。人が生きていくうえで、二つに一つどちらを選ぶのかを問いかけ、私たちを本当の命の輝きのある人生へと導こうとしています。
それでは、ヨハネが語る神の愛とは…。

1.ゆるがされない神の愛の事実

「ここに愛があるのです。(10節)」愛が紛れもなく存在する!と宣言しました。9~10節にはその事実が述べられています。聖書が語る本物の愛とは、目に見える名詞的なモノではなく、常に動きのある動詞的な愛です。私たちがどんなに頑張って人を愛し、喜び合って幸せになろうとしても、どうしても実践しきれません。私たちの内側に、取り去ることのできない罪があるからです。キリストが私たちの罪のために身代わりになって死んで下さった、この神の動きの中に本物の愛があります。あなたのためにも、キリストは救い主であることを忘れないで下さい。

2.神の愛の事実によって動かされる私たち

自分の力で簡単に愛することができるなら、聖書は「愛し合いなさい」と教えたりはしません。生身の私たちは、わがままで身勝手ですから、自分のことしか考えないし、自分の欲や得のためにしか生きることができません。しかし、神に愛され、罪深い私たちの身代わりとなって十字架で死んで下さったキリストの愛を知り、感動するとき、ほんの少しずつ、誰かを愛することができるようになるのです。
大切な両親、わが子、夫婦など、自分の身近な人さえ愛することができない私たちは、キリストの愛に学んで、心を大らかに、ニコニコ笑顔で、祈り、赦して、もっと愛してまいりましょう。この夏も、そんな愛があなたの心の中に働きますように。