主キリストにとって自然ないやしの御業

それから、イエスは、ペテロの家に来られて、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをご覧になった。イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」
                                マタイの福音書8章14節~17節

今日は癒しの礼拝ですが、私たちは、癒しを何か難しく特別なことと思いこんでいる節があります。しかし、癒しは私たちの信じる主イエスと切り離すことのできない業です。イエスを信じるならば、主と共にそこに癒しが存在することを受け止めましょう。

1.イエスのおられるところに癒しがある

聖書の物語を読むと、イエスがおられるところには、至極当然のこととして癒しの御業があります。今日の箇所でも、ペテロの家に入り、しゅうとめが熱病で床に着いていると、ごく自然に彼女の寝ている所に行かれ、手を伸ばし、あっさりと癒されます。その前にも、らい病人を「わたしの心だ、きよくなれ」と癒され、百人隊長がしもべの癒しを申し出ると「行って直してあげよう」とあっさりと言い、癒されます。ちょっと待ってとか、断食をしてからというのではなく、ごく自然に当たり前のこととして行われています。自ら進んで治してあげようという、みこころが溢れています。イエスがおられるところには、当たり前のこととして癒しがあります。もう一度、癒しの御業は、ごく自然に当たり前に起こることを受けとめましょう。

2.主イエスの癒しはすべての人のもの

16節に大勢の病める人が連れて来られ、みな癒されたとあります。イエスの癒しの御業はすべての人に対して開かれ、与えられる、神様からの麗しい恵みの贈り物です。当然、あなたも癒して下さいます。アーメンと感謝して受けとめましょう。神の家族としてそこに居合わせるならば、恵みはみんなに等しく、豊かに100%与えられます。イエスが神の御許に私たちを集めておきながら、恵まれるのはごく一部の人だけということはありません。神の家族であるひとりひとりを愛し、御手を伸ばして、癒して下さいます。「あなたがたの子どもがパンを下さいと言うのに、石を与える者がいるだろうか」と御言葉にある通り、神は良き物を与えて下さいます。キリストのもとに連なるなら、癒されることを信じましょう。

3.イエスの癒しの業は神の預言の成就

「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」、有名なイザヤ53章の御言葉です。癒しは単なる偶然ではなく、救い主の御業として神の預言の言葉の中に約束されています。「彼の打ち傷によって私たちは癒された」とある通り、キリストの流された血潮によって、私たちは、みな癒されたのです。十字架からほとばしり出る愛、救いのわざの中に、癒しの御業はちゃんと予定され、イエスの到来により具体的に人々に現わされるよう、約束されていたのです。キリストが私たちの病を、罪を、身代わりに背負って下さいました。イエスが苦しみを受けて死んで下さったおかげで、私たちは癒しを受けられます。悔い改め感謝して、自分の病も悩み苦しみもあなたにお委ねします、とすべてを主に明け渡しましょう。これが、イエスからあなたに与えられている信仰の恵みです。イエスは今も聖霊によって生きて働き、当たり前のこととして癒して下さいます。キリストの御名によって、ここで癒されましょう。癒しはイエスがおられるところ、どこにでも起こります。全員癒されます。今も神の預言が私の内に成就すると信じ、受け止め、信仰の原点に立ち返りましょう。