もし信じるなら

…マリヤは…言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」…イエスは涙を流された。そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」…イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」…

                             ヨハネの福音書 11章30節~45節

あまりにも有名なラザロのよみがえりの奇跡。その中で、主イエスはマルタに語られました、「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか」。マルタは信じていなかったのでしょうか? いえ、信じていたはずです。私たちも信じているからこそ、今日も神の御前に出て礼拝しているのです。しかし、そんな私たちに主は「もし信じるなら」と語られるのです。
それは、どういうことでしょう?

1.自分の計画よりも神の計画を信じるなら

私たちは「信じている」と言いながら、それは、自分の思惑や計画の枠の中で信じているのであって、そこから外れてしまうと、「もう信じられない」となります。ラザロの姉妹のマルタもマリヤも「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と言いました。ラザロが死ぬ前にイエス様がここに来て、祈ってくださったら、弟ラザロは死なずに、主がいやしてくださったはずだ、とは信じていました。しかし、自分たちが思ったとおりにはイエス様が来られず、ラザロが死んでしまった今となっては、イエス様にも何とかしてもらえるとは信じられなかったのです。自分の思惑や計画から外れてしまった状況では、もうどうにもならないと、不信仰の中に沈みこんでしまうのです。しかし、「もし信じるなら」、自分の計画よりも神の計画を信じるなら、神の栄光を見ることができるのです。自分が思ってもみなかった苦境の中で、思ってもみなかった神の素晴らしい計画が現わされるのです。

2.信じられないものを信じるなら

私たちは「信じている」と言いながら、自分たちが信じられる枠の中で信じているのです。信じられないものは、信じられない、それが当然です。しかし、「もし信じるなら」、信じられないものを信じるなら、神の栄光を見るのです。私たちが信じているのは、どんな神様でしょう。人間の想像や理解の範囲を超えた神様ではありませんか。私たちが理解できない、信じられない、その枠を超えて大きな神様ではありませんか。だから、希望があるのです。私たちが信じられないことでも、神様はなしとげることのできるのです。だから、信じられなくても、信じます、と言えるのです。そのとき、私たちは神の栄光を見ます。これは、私たちが信じられなかったことですが、神様は素晴らしいことをしてくださいましたと、神の栄光を見るのです。インドでなされた数々の奇跡の中で、私が見せていただいたのは、神の栄光です。

3.神の愛を信じるなら

そして、私たちは神の愛を信じるのです。ラザロのために涙を流される主イエスを見て、人々は「主はどんなに彼を愛しておられたことか」と言いました。インドで主に癒される多くの人々を見ながら、私の心にも「主はこの人々をどんなに愛しておられることか」という思いがあふれてきました。主は愛してくださっています。命さえも惜しくないと、与えてくださる主の愛を、もし本当に信じるなら、どんなものでも与えられると知るのです。そして、私たちは神の栄光を見るのです。「もし信じるなら、神の栄光を見る」、私たちが信じられないときも、そうなると信じておられる主によって、私たちは神の栄光を見るのです。