義と信仰と愛と平和を追い求めて生きる

それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。    第二テモテへの手紙2章22節

あなたは毎日何を求めて生きておられるでしょうか。皆、幸せを追い求めていると思います。聖書には、幸せになるために、何を避け、何を追い求めて生きなければならないか、はっきりと記されています。

1.義とされることを追い求めよ

神の恵みをいただくためには、神の前に義とされ、正しい者とされなければなりません。聖書には、キリストを信じる以外に、義とされることはないと示されています。パリサイ人の祈りより、取税人の祈りを義とされたように、神は、神の前に自分を正しいとする者ではなく、神の前に自分は罪人ですと、はっきり認める人を義とされます。私たちの罪は十字架によって贖われました。しかし、私たちは愚かです。悔い改めなければならないことが度々あります。悔い改めることを追い求めなければなりません。これが幸せになるために、まず第一にするべきことです。

2.信仰を追い求めよ

聖書は「信仰の通りになる」と語っています。2人の盲人が、イエスに「あなたはおできになります」と告白したように、信仰を追い求め、神には何でもできると信じ続けていかなければなりません。「できるものなら」というような、半信半疑の信仰を、イエスは厳しく戒められます。どんな状況でも、どんな問題でも、神にはできると信じなければなりません。私たちの人生、どうしようもない時もあります。しかし祈りをやめ、恵みを求めることをやめてはいけません。イエスは、会堂管理者ヤイロに、「恐れないで、ただ信じていなさい」と言われました。信仰を追い求め、信じることを追い求めて生きなさいと聖書は語ります。

3.愛と平和を求め続けて生きる

聖書は、人を愛し、赦し、平和を求めなさいと言います。どうすれば人を愛し平和を得ることができるのでしょうか。コロサイ1章20節にあるように、十字架の救いによる以外にありません。ただ神の愛に触れられることです。
教会の十字架の縦の棒は、神との関係、十字架によって私たちが赦されたしるしです。横の棒は、神が私を愛し、赦して下さったように、人を愛して生きる、人との関係を表しています。人間には限界がありますが、神が私を愛し、赦して下さったように生きようとする時、神が働いて下さり、人との平和を持つことができるようになります。神の平和をいただくと、人との平和を持つことができます。そして、自分の心の中にも平和を持つことができます。私も何をしても上手くいかなかった時、神から「祭壇に供え物をする前に、兄弟と仲直りをしなさい」という御言葉をいただき、この体験をしました。そして神の不思議な御業により、牧師にまでしていただいています。
自分の利益や、得ばかり追い求めるのではなく、神に義とされること、信仰を追い求めること、どんな状況でも神は助けて下さると信じ続けることです。人を愛し、神と人との平和、自分自身の心の中に、神にある平和を求めて生きることです。この生き方を貫く者でありたいと思います。
神は詩篇1篇で、悪を離れて、神の御言葉を慕い求めて生きるならば、水路の側に植わった木のように、何をしても栄えると約束して下さっています。