キリストの居場所を心の中に整えよう

そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。…人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
                        ルカの福音書2章1節~7節

 

昨日は松山での市民チャリティークリスマス、準備の段階から沢山の方が牧師と一緒に立ち上がり、御奉仕下さいましたことは、私の誇りとするところです。クリスマスの主役は救い主イエス・キリストだとお伝えできたことを心から感謝致します。今日は癒しの礼拝です。主は今も働いてリアルな恵みをお与え下さいます。癒やされ強められてまいりましょう。今日の箇所はクリスマスの有名な物語で、よく朗読されるキリストの誕生の箇所です。3つのことを確認して、御一緒にお祈りしたいと思います。

 

1.イエスはどこで生まれたか

ぜひ注目してほしいのです。ルカは単なる神話や伝説で終らせたくなく、詳しく語ろうとしています。1節から地理的な情報が全世界からガリラヤ、ユダヤのベツレヘムへと最近のグーグルアースで検索するように、焦点が絞られています。ルカは精一杯キリストの居場所を明らかにしようとしますが、しかし、最後の最後、一番肝心な部分が不明なのです。それはあたかも、今の世の中で流行っているクリスマスと似ているかもしれません。人々は盛大にクリスマスのお祝いをしますが、主役であるイエスにお会いしないままで終わっています。イエスの居場所は不明確なままです。そこに本当の救いはありません。

 

2.イエスをどこにお迎えするか

7節には人口調査のために宿屋はいっぱいで彼らには居場所がなく、イエスは飼い葉桶に寝かされていたとあります。イエスがお生まれになったのは、綺麗な病院ではなく、汚くて臭い家畜小屋で、イエスの命は飼い葉桶に横たえられていたのです。私たちは一体どこでイエスの命をお迎えするのでしょうか。お迎えしている心の場所はどんな場所でしょうか。私たちはぜひ自分の心のど真ん中にイエスをお迎えする者でありたいし、私たちのどこを切っても、どの場面を人々に見て頂いても、クリスチャンとしての香りが漂っているようにしたいと思います。父の恒雄牧師が、クリスチャンであることを隠すべきではないとよく語っていました。私たちはイエスの恵みを知っているはずです。困った時の神頼み的な身勝手な信仰ではなく、心のど真ん中、心の一番良い場所に、イエスを常にお迎えしようではありませんか。

 

3.へりくだってお迎えする

キリストは、王家の王子としてではなく、冷たく汚い飼い葉桶の中に御自分の命を置かれたのでした。飼い葉桶の汚くて冷たい木は、イエスの御生涯の最後に触れなければならない十字架の冷たさを物語っています。イエスが神でありながら、人となられた理由は、私たちの罪を背負って十字架で死ぬためでした。イエスの御生涯の最初から、この世の冷たさや罪の醜さを、その赤子としての肌身を通して味わわれたのです。このイエスを心から感謝してお迎えしようではありませんか。主よ、あなたのおられる所は、今、私のいるこの場所に他なりませんと自分の命を差し出そうではありませんか。汚い飼い葉桶のような私たちの心ですが、悔い改めながら、救い主、癒し主であるイエス様をお迎えしたいと思います。そうすれば、インマヌエルの神、主が共にいて下さいます。