私たちの内にある希望

もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。                  
                    第一ペテロの手紙3章13節~15節

 

善いことに熱心であっても、迫害され苦しめられ、脅かしを受けることがあります。しかし、それでも動揺したり、恐れてはならない、それが聖書の教えであり、約束です。それは、ペテロ自身も体験したことです。様々な迫害を受け、むち打たれ、牢屋に入れられ、イエスの名によって語るなと脅されました。しかし、それでも恐れたり動揺することなく、イエスの名によって語り続け、世界を変えたペテロです。どうしてそんなことができたのでしょう?その信仰の秘訣をペテロ自身が次のように語っています。

 

1.心の中でキリストを主としてあがめる

どんな時でも、心の中でキリストを主としてあがめるのです。乗り越えられないような山が行く手をさえぎっていても、山よりも大いなる「天地を造られた主」を仰ぎ見るのです。そこから助けが来ます(詩篇121参照)。また主イエスが嵐の夜の湖の上を歩いて、ペテロと弟子たちを助けに来られたとき、ペテロも主によって水の上を歩く奇跡を体験しましたが、イエスから目を離し、波と風を見て恐れたとき、ペテロは沈みかけました。大切なのはキリストを見続けることです。目の前の状況に左右されて一喜一憂することなく、どんな時でも、心の中でキリストを主としてあがめるのです。そのとき、栄光の神の御霊が私たちの上にとどまってくださいます(Ⅰペテロ4:14参照)。キリストのために苦しみを受けることを光栄として喜び、ますます主をあがめる思いが与えられます(使徒5:41参照)。キリストをあがめると、心も状況も変えられて、ますますキリストをあがめられるようになるのです。

 

2.私たちの内にある希望を知る

私たちの内には、私たちが主としてあがめるキリストがいます。私たちの内には希望があります。その希望を知りましょう。そのために、祈りましょう、「心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、…知ることができますように」と(エペソ1:18-19)。そして、私たちは知るのです、全能の神の力によって、どんな問題も障害も乗り越えられる希望があることを。どんな病でも、いやされる希望があることを。たとえ死んでも、永遠の命の希望があることを。キリストを主としてあがめる私たちの内には希望があるのです。キリストこそ、私たちの希望そのものです。肉の目では見えなくても、キリストを愛し、言葉に尽くせない、輝きに満ちた喜びと望みにあふれて、どんな試練も乗り越えていけるのは、「信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです」(Ⅰペテロ1:9)。この世のどんな力も、死でさえも奪い去ることのできない希望が私たちの内にはあるのです。それは、キリストの救いによる希望なのです。その希望を知りましょう。

 

3.私たちの内にある希望について弁明する

そして、私たちは希望について弁明するのです。「希望などない」と言う不信仰なこの世に向かって、「希望がある」と弁明するのです。どんな困難の中でも希望に輝いて生きるなら、人々はその希望を知りたくて説明を求めてくるでしょう。そんな人々に、私たちは希望を語るのです。ただキリストを信じるだけで、誰にでも与えられる救いの希望を語るのです。クリスマス、この世界に生まれた救い主をあがめ、全ての人々の心に希望が与えられるために。