主は私たちを見捨てない

しかし、シオンは言った。「主は私を見捨てた。主は私を忘れた。」と。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。」    イザヤ書49章14節~16節

 

母親がわが子を忘れないように、いえ、たとえそんなことがあるとしても、主は「このわたしはあなたを忘れない」と語られます。しかし、現実はどうでしょうか。シオン、エルサレムの人々が「主は私を見捨てた」と言ったように、私たちも神様から見捨てられたと感じることはないでしょうか。当時、ユダの国は滅び、都エルサレムは破壊され、人々は遠くバビロンの国に奴隷として連行されていました。神から見捨てられたとしか思えない、それが実感でした。しかし、大切なことは、どう感じるかではなく、どう信じるかです。神から見捨てられたと感じるときも、「主は私を見捨てない」という神の約束を信じるのです。

 

1.主を探し求める

神様が見えない、見捨てられた、そう思うときも、主は近くにいます。探せば、見つかります。「私を見捨てることなく、主はここにも、私とともにおられた」と気づきます。そして、「ない、ない」と探すと見つからず、「ある、ある」と探すと見つかるように、「主は私とともにおられる、主は私を見捨てない」と信じて告白しながら探しましょう。きっと、見つかります。

2.見捨てられても、見捨てられない

それでも、主から見捨てられたとしか思えない、そんなこともあるでしょう。実は聖書にも、主がエルサレムをその罪のゆえに見捨てるとか、「わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てた」(イザヤ54:7)という記事があるのです。「見捨てない」と約束した主が、しばらくでも「見捨てた」というのは、「矛盾」としか思えません。しかし、信仰は理屈を超えて、どちらも信じるのです。見捨てたのも事実、見捨てないのも事実、見捨てられても、見捨てられない、と信じるのです。主が私たちを見捨てられるのは、私たちを見捨てないためなのです。ユダの国は罪と不信仰のために滅びて、「主から見捨てられた」と思いましたが、おかげで悔い改め、「主は私たちを見捨てない」という恵みを体験します。祖国と神殿の再建です。見捨てられたのは、見捨てられないためでした。神は見捨てないのに、その神を捨てる、人間のどうしようもない罪に気づくためでした。見捨てられることによって、見捨てられなくなる…、十字架もそうです。主が十字架で見捨てられたからこそ、私たちは見捨てられずに救われたのです。全ての罪は十字架で償われたからです。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた、主の十字架の身代わりによって。

3.見捨てない愛がある

そこには、私たちを見捨てない、神の愛があります。「どうして見捨てることができようか、できない」と叫ばれる主の愛です。百匹の羊の群れから迷い出た一匹を見捨てることのできない羊飼いのような主の愛です。エリコに下る道で強盗に襲われ、祭司やレビ人にも見捨てられた旅人を、どうしても見捨てられなかった良きサマリヤ人のような主の愛です。道ばたに落ちた、飛べない鳩のひなを、見捨てられないで助ける人のように、そのままでは滅びるしかない、自分で自分を救えない私たちを、主は見捨てることができず、命を身代わりにしてでも救おうとされたのです。その愛があるから、私たちは言うことができるのです、「主は私たちを見捨てない」と。