日曜礼拝を尊ぶ姿勢

もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を「喜びの日」と呼び、主の聖日を「はえある日」と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら、そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう。「わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う。」と主の御口が語られたからである。                                                      イザヤ書58章13節~14節   

今日の聖書の箇所は、基本を忘れてはならないという神からのお言葉です。信仰を復興し、世界の光としての使命を思い出せ、当たり前の信仰生活を見直せ、とイスラエル人に語られます。

1.聖日を守る

まず聖日の意味を確認しましょう。起源は、神が天地宇宙を造られ、7日目に休まれ、その日を聖なる日とされたことです。モーセに与えられた十戒に、6日働き、7日目を安息日とするよう決められていますが、これは単なる休みではありません。私たちは霊的な存在です。本当の休息を得るためには、神の前で静かな時を与えられる安息が必要なのです。
旧約での安息日は7日目の土曜日でしたが、主イエス・キリストが十字架にかかり、私たちの罪をあがない、3日目によみがえったのが、週のはじめ日曜日の明け方でした。それで、旧約の神を信じる信仰から、イエスを焦点として神を礼拝するため、日曜日の朝がクリスチャンの聖日となりました。
しかし古代ローマでは、クリスチャンは迫害され、日曜礼拝はままなりません。多くの祈りと殉教の結果、ローマ帝国にキリスト教が広がり、最終的に国教となります。そしてついに、日曜日は神を礼拝する日として休むことができるようになったのです。私たちが当然のように休みを取り、礼拝をしている日曜日は、多くの人々の血により勝ち取ったもの。ただ寝て、遊ぶ日ではなく、神を礼拝する日なのです。

2.聖日を守るために行動を起こす

単なる決まりだからではなく、主の前に出て喜んで讃美し、交わりを持つのが本当の礼拝です。時代は優しく豊かになり、いろいろな楽しみ方がありますが、私たちは何よりも、神を礼拝するためのはっきりとした行動を忘れないようにしましょう。
宗教改革の1500年代も聖日を守るのは大変でした。英国王が国民に娯楽を楽しむようにと、おふれを出し、熱心なクリスチャンは、神を礼拝すべきだと反発。ピューリタン革命を起こしました。私たちは、忙しくて礼拝がおろそかになりがちです。しかし、礼拝に対する姿勢が生ぬるくならないようにしましょう。日曜礼拝を実現するために命まで失った先輩のクリスチャンがいるのに、私たちが礼拝をおろそかにしたのでは残念です。

3.祝福が来る

私たちが、聖日を主の御名をほめたたえ、聖く守るときに人生が自動的に祝福されるのです。生きるために、必要な呼吸や食事のように、生きる基本として神を礼拝することを第1に守ることです。
確かに忙しいでしょう、やりくりが大変、だからこそ、私たちはクリスチャンとして神を礼拝するのです。以前アカデミー賞を受賞した映画「炎のランナー」は、オリンピックで金メダルを期待された陸上選手の実話です。彼は、競技の日が日曜日になったため、出場を辞退します。今のクリスチャンはそこまでしないでしょう。20世紀初頭は、自分が何に命をかけているのか白黒はっきりすべき時代でした。彼は後に中国への宣教に命をささげます。
神の前に日曜礼拝を第一にしてみてください。神は必ずあなたを祝福してくださいます。