…イエスは、彼女に近寄り、その手を取って起こされた。すると熱がひき、彼女は彼らをもてなした。…日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのもとに連れて来た。こうして町中の者が戸口に集まって来た。イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をお直しになり、また多くの悪霊を追い出された。…イエスは彼らに言われた。「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」…イエスは…福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された。                                                                                                         マルコの福音書1章29節~39節 

梅雨の時期、私たちも命の与え主である神からの恵みの雨を頂きましょう。主は生きて働いていらっしゃいます。神の恵みに変わりはありません。その祝福をいただきましょう。
今回のインド伝道の中で主が御業をなして下さり、人々が救われ癒され解放されました。目が見えなかった人がその場で癒されたり、歩けなかった女の子が立ち上がって歩いたり、たくさんの癒しをイエスが現わして下さったことを心から感謝します。
しかも、その恵みは前もって準備された大集会の中だけでなく、突然に決まった集会においても現わされたことを感謝します。
ところで、イエスの癒しはインド伝道の中だけで起こる特別なことでしょうか。決してそんなことはありません。私たちにもごく当たり前のように主の癒し、悪霊からの解放の業は起こされるのです。

1.一つの奇跡は全体のモデル

一つの奇跡は、それに引き続いて起こる、皆に与えられる祝福のモデルです。イエスは行く先々で次々と休む間もなく人々を癒し、悪霊を追放されました。それがイエスの日々の行動のパターンでした。聖書の時代と同じように、イエスは今も出会う私たちを癒して下さるのです。インドで起こされた素晴らしい御業は、日本でもここかしこで起こることだと感謝しましょう。

2.イエスにとって癒し・解放は当たり前

あなたにとって特別だからといって、力みかえって、あなたに対する癒しが与えられないものであるかのように決めつけてはなりません。イエスにとっては、病人と出会えば癒し、汚れた霊に取り憑かれ苦しんでいる者がいれば悪霊の支配から解放するのは当たり前で、それは日常茶飯事のように起こることを感謝したいのです。ですから私たちは力んだり、特別な信仰を用意したり、臆する必要もありません。私たちは心から癒しを願い、素直に私たちを癒して下さるイエスに近づきましょう。

3.イエスは福音を伝えるために来られた

人々を救い、癒し、悪霊から解放することがイエスの目的でした。イエスご自身がその目的を御存知です。「そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから」と語られて、イエスはガリラヤ全土を行き巡り、人々に福音を語り、救いを与え、病める人々を癒されたのです。
あなたの信じているイエスは、昨日も今日もいつまでも変わりません。その目的もお忘れにはなりません。このイエスに信頼して祈ろうではありませんか。祈る時、インドにおいて素晴らしい奇跡が起こるのなら、同じ信仰を持って歩む私たちも癒されて当然ではありませんか。そもそもイエスにとって癒しは日常的なこと。イエスの毎日は癒しの業と悪霊に対する勝利につぐ勝利の日々でした。このイエスの当たり前の姿に今日も触れようではありませんか。
イエスがこの世に来られたのは、人々を救い、癒し、解放するためです。それは何も難しくはない、イエスにとって当たり前のことです。このイエスに今日も祈りましょう。主の恵みに飛び込んでゆきたいと思います。