私たちの罪を明らかにする十字架

十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。ところが、もうひとりのほうが…彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。…われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「…あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」                                               ルカの福音書23章39節~43節   

今年は例年より1週間早く桜の開花になりましたが、この春の様々な新しい命の芽生えと共に神様が備えて下さっている恵みの流れに立ち遅れないようにしましょう。本当に便利な世の中になってきましたが、幸せはお手軽に手に入るものではありません。本当の幸せは魂と深く繫がっていますから、心のあり方、魂の状態が大切です。祝福された人生には、本物の救い、永遠の命の約束があります。誰にでも平等に訪れる“死”という運命を目の前にしても変わらない平安と喜びがあります。本当の幸せのために、心の中の罪と死の問題から目を離してはいけません。来週はイースターです。イースターは私たちのために死んで復活されたイエスお一人の物語ではありません。十字架を通し、イエスと関わった大勢の人々の心の罪や本性があぶり出される物語なのです。今日の聖書箇所には、十字架につけられたイエスと、その右と左の十字架につけられた2人の犯罪人との対話が記されています。ここに示されている十字架の意味と恵みを受けとめましょう。

1.十字架は人を2つに分ける

犯罪人の1人は、イエスに「キリストであるなら、私たちを救え」と悪口を言います。一方、もう1人の犯罪人は、「自分たちは刑罰を受けて当たり前だが、イエスは何の罪もない聖いお方だ」と告白します。イエスの十字架は人を2つに分けます。イエスの十字架を見て、自分の罪を認めるか、罪を認めず死ぬまで罪を抱えて生涯を終えるか。2つに1つ、どちらかに分けられます。不完全な私たちは罪や間違いを犯し、さらにそんな自分の罪深さも分かりません。イエスの十字架を通し、自分の罪の深さを知りましょう。私たちの罪が、イエスを十字架につけたのです。イエスの十字架を、私のための十字架として受け止めましょう。

2.イエスの十字架は私たちを天国に導く

犯罪人の1人はイエスに「御国の位にお着きになるときには、私のことを思い出してください」と願います(23:42)。イエスは十字架刑の苦しみの中から、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と答えて下さいます(23:43)。パラダイスは地上にはありません。救い主であり神であるお方だけが用意することができる救いの場です。罪ある者は神のもとに行くことはできません。しかし、イエスを心から受け入れ、信じる者にはパラダイスに導かれる約束があります。生身の人間が必ず体験する死の恐怖の向こう側にある、平安と喜びに満ちたパラダイスへとイエスが導いて下さるのです。
聖書には、「イエス…を十字架につけた」(23:33)と簡単に書いてありますが、想像してみて下さい。人間の体を釘だけで支えて十字架につけることを。そこには激痛以上の痛みがあります。それなのに、イエスは、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と祈って下さったのです(23:34)。
自分の罪深ささえも分からない私たちです。自分だけは間違っていないと罪を認めない愚かな者です。十字架を前にへりくだりましょう。罪を認め、イエスを信じ、パラダイスへと導かれましょう。