恩知らずのクリスチャンにならない

私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。                                                  ローマ人への手紙5章6節~8節   

この書簡は、使徒パウロがローマの教会に住むクリスチャンに宛てて書いたものです。彼は、あの手この手でイエスの恵みのすばらしさを語っています。私たちも、クリスチャンであることはなんて感謝なことであるか、その恵みを喜ぶものでありたいのです。

1.神の恵みはすでに注がれていた

私たちがまだ弱い、罪人であったときにキリストが死んで下さったと書かれています。私たちが神のみこころにかなう者だから救われたのではなく、とんでもない罪人であったときに、キリストは私たちのために十字架の上で身代わりの死を遂げて下さった。神の救いの業は、私たちが弱く罪人であったときに現されたことを感謝したいのです。
今は、受験シーズンで、大人は学生たちに偉そうに、「勉強しなさい。テレビや携帯、パソコンをやってる場合じゃない」などと言います。しかし自分が学生の時は、私自身も教会のことは熱心でしたが、勉強などはしないまま、はなはだ恥ずかしい限りでした。人生も年月を重ねると道理がわかり、上手にいろいろ考えられるようになってきます。しかし、その場ではわからず、後になってわかることも多いものです。
イエスが十字架で死なれた時は、当然まだクリスチャンは一人もいません。誰もイエスの十字架の意味がわからず、キリストの愛を知らず、聖霊に満たされることもなく、主を讃美することもなかったのです。その中でイエスは、救いからほど遠い私たちの罪を背負って死に、罪を帳消しにして下さったのです。この恵みに感謝しましょう。

2.イエスの死により明らかにされた神の愛

そしてこのキリストの十字架の死によって神の愛が明らかになったと書かれています。キリストが罪の身代わりになって死なれたのは、神がひとり子を身代わりにしても構わないというほど私たちを愛しておられるからです。どんなに職場や家庭が難しい状況の中にあっても、あなたも私も神に愛されているのですから、ひとりぼっちで捨て去られることはありません。この聖餐式で、こんな私のために神の愛が注がれていることを感謝しましょう。
恩知らずの者になってはいけません。どんなに信仰生活が長くても、横着でわがままなクリスチャンにならないように気をつけましょう。つい、自分一人で生きてきたかのような錯覚に陥るのは罪深いことです。教会生活の中でも想像以上に兄弟姉妹にお世話になっていることがあります。就職や進学でも、いろいろな人が世話を焼いてくれたでしょう。春にはお世話になったことを思い出し、感謝すべきです。
そして、その春に忘れていけないのは、救い主イエスからいただいた恵みです。キリストがなして下さったのは、単なる手続きではありません。命を捨てるまでに神の愛を注いで下さったのです。
子供や結婚相手のためには命を捨てる人もいるでしょう。しかし、死刑囚の代わりに私を死刑にしてくれと言える人がいるでしょうか。神の裁きを受けて死ぬべき者の代わりに死んで下さったイエスに感謝し、神の愛に感謝し、その恩を忘れないことです。神の愛を単に知っているだけで終わらせず、イースターを前にしたこのひと月、十字架に立ち返り、感謝する信仰者でありたいのです。