あなたはどこまで信じますか?

それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。…しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」…   マタイの福音書15章21節~28節

2013年もすでに1月6日を迎え、明日からは普段通りの動きが始まります。実生活の中で信仰を持って必ず祝福されるという意識で歩みましょう。
今日の聖書箇所から、いやしをいただくために、もう一歩踏み込む信仰を学び、あなたが信じているお方は誰で、何を信じているのかをもう一度確かめましょう。私たちの信じるイエスは、魂の救い主であり、永遠の命を下さるお方、そして、いやし主です。

1.イエスをどこまで信じますか

私たちは、イエスを信じているはずです。しかし、このイエスをどこまで信じているでしょうか。
この記事の特徴は、イエスが一見冷たく見えて、最後の最後に最大のほめ言葉を投げかけておられることです。このコントラストを読み取りたいのです。
イエスは、カナン人の女が訴えてきたとき、最初は一言もお答えにならずに無視。次は、イスラエル人のために来たのだから、異邦人である彼女は、自分の働きの対象外であると拒否。それでもさらに叫び続ける彼女に、野良犬の小犬のような取るに足りない者にあげるものはないと言われます。今の社会なら、名誉毀損で訴えられるような台詞です。一度ならず二度三度とイエスは彼女を否定されたのです。
私たちは日本人らしい物わかりの良さで、簡単に諦めたり、侮辱されたと腹を立てて自分からやめたりしていないでしょうか。彼女は、何度拒否されても諦めませんでした。冷たい言葉を浴びせかけられても腹を立てることもなく、イエスに向かって踏み込んだのです。
あなたはどこまでイエスを信じますか? みんなから受け入れられイエスに愛され大切にされるから信じますか? イエスに背を向けられたように感じても、自分から踏み込んでみませんか。そのためには、目の前にあるひとつの壁を1回越えることです。この女も自分の目の前の壁をひとつずつ越えました。人間関係、受験、将来の計画…今置かれている場所で神に向かって一歩踏み込むのです。

2.自分の価値をどこまで信じますか

いやしてくれるというイエスに対して、欠点の多い自分の祈りにも答えてくださると信じられますか。
彼女は異邦人で、イスラエルとは断絶状態のカナン人、当時は女性の立場は大変低く、おそらくはその中でも立場の弱い未亡人だったのでしょう。イエスにも、人間ではなく犬、それも未熟な小犬と言われました。
あなたはどこまで自分に救われる価値があると信じられるでしょうか。神の愛にとっては小さすぎる者はいません。神は私をひとりの魂として選んでくださったし、ひとりの罪人が救われるときに天では大きな喜びがあると書かれています。
この女性が、たとえ小犬でもテーブルから落ちるパンくずならいただけますと言ったとき、イエスは「あなたの信仰はりっぱです」という有名なお言葉を語られたのです。
イエスに向かって、そして自分に向かって一歩踏み込むとき、「おまえの信仰はりっぱだ」とイエス本来の愛があふれるお言葉とともに主の恵みをいただくことができます。今日もプラスワン。今日も今まで以上のことが起こると信じませんか。